それぞれの「生」=選択への尊重 | hiromittiのblog

hiromittiのblog

自分をポインターにして映し出された
相対の世界を受容することで
その世界の相対である自分を愛する 
 
世界のすべてがわたしと相対との愛の響き

問題が創られない領域、パートオブフォーチュンを創造するのみ!

 

それぞれの「生」=選択への尊重

おひさしぶりに

開いてみました。

 

みなさん

いかがお過ごしですか?

 

 

わたしは

学校看護師

として

学校・福祉・医療

という

 

人間臭の強烈なフィールド

(生と死)

をポインターにして

自分の内側にある世界を眺めることを楽しみ

 

夏休みということで

 

文字にエネルギーを乗せ

世界をシェアするという

 

かつての日常をさらにポインターに

自分の内側を眺めてみようと思っております。

 

 

 

 

学校看護

という

特殊なフィールドで約7ヶ月

 

生と死

 

に向き合ってきました。

 

 

それもエッセンスとなりますが

そこから開かれたワールドが

最近目にした

 

「出産」

への考え方。

 

 

「生」

を重要視するのなら

 

このとてつもなく困難な世界に

大事なわが子を

生み出す

ということは

考えられないといった

 

20代くらいなのかな

とある女性の考え方。

 

 

男女の関係性も

その考えがベースにもあり

「共依存でしかない」

否定的で

 

その世界線も理解できるので

ふむふむ

頷いた

 

 

 

あらゆるポインターから

たどり着く世界は

 

内にある世界が引き出され

拡大するごとに

全く変わってくる。

 

 

 

それが

自分自身ではものすごく興味深く

自分にしか見ることができないドラマのようで

面白い。

 

 

 

この世界に

生まれてくる存在

 

その可否など

多くの人は考えないだろうし

 

正当性で包み込まれているフィールドに居ると

純粋なあらゆる多様

に出会わなければ

 

その奥にある
自分のドロドロには

出会うことなどなく

 

永遠に正当性に包み込まれた世界

に居るだけだろう。

 

 

ただただ

ふつうを逸脱している状態で

「生」

として存在する

 

そのバリエーションの世界は

 

自分の隠された

そこへの抵抗と正当性を

 

丸裸にする。

 

 

 

それと向き合うほどに

個への尊重

増す要素しかないということがわかる。

 

 

この世界は

ただただ

すべてがOK

なわけで

 

それがわかるために

自分の闇という幻想と向き合う

 

そんな世界だと思う。

 

 

すべてが可

だからこそ

 

それを知るための不

があり

 

抵抗を生み出す。

 

 

 

それでよい

 

 

その瞬間瞬間

「よい」

「完」

だと

 

そう思えない抵抗を外すために

 

幻想を映し出しているだけ。

 

 

 

 

すべてが

最初から許容しかないことを知るための

抵抗。

 

 

 

先回りして

恐れを回避

する動きをしながら

 

幻想と向き合い

 

幻想を壊し

真と出会う。

 

 

瞬間対応しかないことを

その出会いを重ねるにつれ

身体でわかり

 

頭でわかっていた世界と

統合していく。

 

 

 

知識と身体を統合させ

人生

世界

そのものとなっていく時間。

 

 

それは

身近な展開をポインターに

自分と向き合うのみの

孤独な時間。

 

 

個の尊重

 

それぞれの人生は

それぞれの向き合いの時間。

 

それは

正誤のない世界。

 

魂の浄化の時間をそれぞれに。

 

 

 

 

こんなことができるのではないか

こうしたら楽になるかも

 

看護の道の主要な旋律

なのだろうけれど

 

ここでの学びは

どんな状態でも丸ごとを受容するだけ

 

生も

死のちらつきも

受容から始まる。

 

 

自分のエゴとの向き合いと

消滅。

 

 

特殊なフィールド。

 

 

 

たくさんのエゴが

交わり合う

人間臭い

その相対に

ものすごく純粋な生

との

 

混乱と静寂とが入り乱れたカオス。

 

 

 

 

 

「共依存」

「出産・いのち」

 

 

あらゆる場面で

向き合うことになる。

 

 

子どもに対して

こんな世界に生み出して

それこそが

大罪だというポインターも

身をもってよくわかる。

 

しあわせなのだろうか

医学の進歩も

科学の進歩も

 

それはしあわせのために発展しているのだろうか

という疑問も強く持つ。

 

 

「共依存」

材料に

「いのち」

がなっていないのだろうか

 

そう感じたことも

たくさんある。

 

 

 

すべてが

OK

との相対。

 

 

 

 

 

最後の一球が

なんでストライクじゃないんだ

 

気持ち悪い

スッキリと線を引けない終わりで

敗戦となる

 

そのピッチャーの気持ちも

それを

その世界を

まるごと受け容れる

親の何とも言えない気持ち

 

そんなこともすべて

 

 

すべてが

繋がっている。

 

 

 

どんな場面も。

 

 

 

すべてが

最初から許容しかないことを知るための

抵抗。







先回りして

恐れを回避

する動きをしながら

恐れと直面し

 



幻想と向き合い

幻想を壊し

真と出会う。





瞬間対応しかないことを

その出会いを重ねるにつれ

身体でわかり



頭でわかっていた世界と

統合していく。







知識と身体を統合させ

人生

世界

そのものとなっていく時間。



 

 

すべてが

受容

尊重

相対。

 

 

 

この目の前のすべてが。

 

 

 

 

 

 

 

 

幻想と

その土台の世界を

感じ取る時間。

 

 

 

 

 

 

体験していることも

 

知識を獲得していることも

 

すべてが

 

繋がっていることがわかるときが

 

必ず来るでしょう。

 

 

 

 

なにひとつ

無駄がなく

 

すべてが大事なポインターだということが

 

自分でよくわかり

 

今何をしているのか

 

 

 

きっと

よくわかる

 

鮮明に観えるときが

 

もうすでにここに重なっている

 

 

 

 

だから

ひとつひとつを

大切に

 

 

すべてが

 

「生」への

 

 

尊重

 

でしかない。

 

 

 

 

 

 

「共依存」を越え

「孤独」を受容し

 

ひとりであり

個の選択が展開していく責任を自ら受け容れる。

 

 

 

ひとりの

ひとつの世界。

 

 

ひとつの選択で

その言葉で

その行動で

場が展開している。

 

 

 

恐れを越えた受容の旅。

 

 

 

ただただ

それが起きているという

 

そのフラットな世界の相対の

 

凸凹な世界を

 

どうカンジルかで

ストーリーが成り立っている。

 

 

 

何をしているのかではなく

どんなインナーワールドを観ているのか

 

その

ただそれだけの

 

シンプルな世界。

 

 

 

 

だからこそ

 

個人のそのインナーワールドへの

尊重。

 

 

 

 

それのみ。

 

 

 

 

 

 

なにもない

 

 

 

 

バイブレーションの波が

ただただ

うねっている

 

 

ただそれだけの世界

 

 

 

あるべき姿が

消滅した

静かな世界。

 

 

 

その受容。

 

 

その世界の受容。

 

 

 

 

新しい世界。