両親の影響もあり、子供の時から漠然と教師になりたいと思っていました。人前に立つことや人に何かを教えることや人の世話を焼くことは好きだったし、自分が田舎でいい教育を受けたことがとてもありがたかったので「教育が人生を創る、自分も誰かの人生を教育でサポートしたい」と真剣に思っていました。でも、両親を見ていると小学校は教科も多いし、子供の家庭と深く関わらないといけなくて大変だから、高校で専科がいいな、でも受験勉強みたいなのは嫌いだし、人生や生活について学ぶことが好きで、(料理は嫌いだけど)裁縫も好きだったので、家庭科の先生になりたいと思っていました。ただ、「良妻賢母教育」みたいなのではなく、「生活を学ぶ、人間を学ぶ」という感じがよく、両親も国立大学出でそんなにお金持ちでもなかったので国立大学でできれば共学で、さらに関東か関西の都会で一人暮らしをしたくて…そんな条件で探したら、神戸大学にぴったりの学科を見つけて。神戸という場所も都会過ぎない都会で気に入り、決めました。「受験勉強」みたいなのは嫌いで、最後まで塾にも行きませんでしたし、正直判定も真ん中くらいで受かるかどうかわからなかったのに、「まあ、なんとかなるやろ」で実際になんとかなりました。昔から妙に肝が据わっているというか、多分ある程度柔軟性があって、その場その場で臨機応変に対応すればいいやと思っているところがあるので、神戸に行きたいという気持ちはあったけれど、それがダメでもほかに行けばまたその先で楽しい未来があるだろう、みたいな、そういういい加減さがあります。その場その場で一生懸命にはなれるけれど、何か(人から見て)はっきりしたわかりやすい目標を決めてそれに対して必死で頑張るというトップダウンのやり方は苦手で、称号とか肩書きとか、そういうものにもあまり興味が持てません。

 

 都会に憧れたのは、自分が不自由ばかりのものすごい田舎で生まれ育った反動や、とにかく実家を出て一人暮らしをしたかったこと、今まで自分が知らず知らずのうちに背負ってきた「いい子」「なんでもできる優等生」みたいなレッテルを全く知らない人の中で埋もれて、誰も知らない本来の自分で生き直したい、という深層心理があったような気がします。

 

 今でもすっごく印象に残っているのは実家を出て一人で船に乗って神戸に渡り、まだカーテンもついていない部屋で小さな明かりをつけて本を読んだ時のものすごい開放感です。周りの友達はみんな家を出てすぐにホームシックになったとか、愛媛が恋しくなったとか、今まで身の回りのことをやってくれていた親に感謝したくなったとか、そんなことを言っていましたが、私には一切理解できなくて。ああやっと一人になれた、自由になった、という開放感で、何もなくてもとにかく楽しくてハッピーで。本音を言うと、もう二度と実家になんか帰りたくなかった。今思うと、母の愚痴を当たり前のように聞き、大学受験に失敗して少しおかしくなりかけていた兄や喜怒哀楽が激しくわがままな妹にいらだちながらも波風立てないように自分を抑え、いい長女、いい妹、いい姉を演じながら実家で過ごすことに心が限界だったのだと思います。その後在学中も就職後も義務だと思ってお盆とお正月には実家に帰っていましたが、帰っても若い頃はほぼ友達と出歩いて家には寝に帰るだけで、居心地がいいから帰る、ということは一度もなかったです。帰らなくていいなら帰りたくなかったです。

 

 部活は写真部に入りました。ダンスを続けたい気持ちはありつつも、高校でいろいろがんばったので、大学でも運動部でがんばるのはちょっとしんどいという気持ちがあり、一応「ダンス」と名のついた競技ダンス部に誘われて少し練習に行ってみましたが、それまで創作ダンスやジャズといった自由な表現をしていた私にとって、社交ダンスの基本の型を延々練習することや男女がペアになって踊ることがいやで、入部には至りませんでした。もう一つ気になったのはチアでしたが、チアが所属する応援部は入学式で広い会場にちらばって大声で叫んだり歌ったりするのを見ていてあれはいやだ、さらに体操部のようなアクロバティックなことは自分には無理だと思ってあきらめてしまいました。人生であまり悔いはないですが、このときチアか競技ダンスにチャレンジしていたら、ということだけは悔いが残っています。

 

 大学入学後しばらくは明るく楽しく、友達と家でホームパーティーしてそのまま雑魚寝…、といった感じで過ごしていました。が、夏くらいからその中の一人と付き合うようになり、半同棲状態になったくらいから暗黒の時代に突入していきました。初めてまともにできた彼氏で、しかもいきなり家族のような関係になった相手に、いい距離を保てず、どんどん「めんどくさい女」になってしまいました。今思うと自分が母親に同化し、家族の中で「こうでなければならない」と我慢してきたように、彼にも私と同化してほしくて、自分が我慢してまじめにしているようにしてほしい、するべきだ、と押しつけていたんですね。でも彼は私の思い通りにはならない。「どうして?私のことが好きなのにどうして私の言うことを聞いてくれないの?」「私はまちがったことを言ってない、正しいことを言っているのに、どうして私の言う通りにしないの?」

 

 周りの同級生に対しても同じでした。大学は高校までと違ってとても「自由」で。授業を多少さぼっても怒られない。提出物をズルしてもバレなければ何も言われない。周りの子たちが適度に遊びながら手を抜く中で、私は与えられたこと、決められたことをきちんとこなす、ということにこだわって、きちんとやらない彼らを見下し、軽蔑するようになってしまいました。 

 

 元々一人で過ごすのは平気な方だったのと、同じクラスで最初に仲良くなった子がメンタルをやられて学校を休みがちなのに私がほかの子と仲良くしていると嫉妬するというのもあって、学校ではいつも一人で過ごすようになりました。ほかの学科や部活ではそれなりに仲良くしている子はいても授業中やお昼はいつも一人。多分いつも険しい顔で過ごしていたと思います。

 

 高校時代までのキラキラした生活とは正反対の暗黒の日々でした。自分はまちがってない、正しいことをしているはずなのに、正しくないみんなが楽しそうで、正しくない彼氏がみんなから好かれて、日々一人で、楽しくなくて、好かれてもいない、何者にもなれない自分が大嫌いでしたが、どうしていいかわかりませんでした。それまで人に頼らず何でも自分でやってきたので、誰かに甘えるということもできませんでした。彼氏に泣いて怒ることはあっても、ジトジトうつうつしているだけで、心が晴れることはありませんでしたし、彼氏の心が離れていくのもわかっていましたが、彼氏を追い詰める自分を止められませんでした。

 

 その頃、実家の方でも、父、兄、妹がいろいろと問題を抱えていて、家族崩壊のようになっていました。(詳しく読みたい方はアメンバー限定バージョンで)

 

 こういう家族がぐちゃぐちゃな状態が大学2年から30才くらいまでずっと続いていました。私が実家に帰るのはお盆とお正月くらいでしたが、家族それぞれから救いを求める電話がかかってくるたびに延々話を聞き、いい娘、姉、妹を演じ続けていました。実家に帰っても私が家にいると母から何時間も愚痴を聞かされ、実家に帰る度に持病の胃痛が出るようになっていました。本当は自分が助けてほしいのに、自分は家族にとって常に相談役で、聞きたくもない話を聞くことで自分も疲れ切っていました。幼い頃、統合失調症の躁鬱で、周りに迷惑をかける祖母に困り果てている両親を見て、自分は絶対にメンタルの病にだけはならない、と思っていましたが、おかしくなる妹や兄を見て、一層その気持ちが強くなりました。

 

 大学3年生になって彼氏とは別れました。相変わらず暗黒の日々でしたが、高校の先生になるという夢は持ち続けていました。成人式に中学の同級生に久々に会ったら、家庭環境が複雑だったり勉強ができなかったりヤンキーだったりした子たちが、中卒や高卒ですでに働いて、落ち着いた社会人になっているのを見て驚きました。学習能力や経済的に恵まれた家庭で育ち、親のお金でキラキラした楽しい大学生活を謳歌している高校や大学の同級生や、生産性のないことでいつまでもぐだぐだ悩んでいるモラトリアムまっさかりの自分が恥ずかしくなりました。自分は大学を出たら、こういう元ヤンの子たちみたいないろんな子供を相手にしないといけないのに、今の自分では絶対的に経験値が足りない、世の中を知らないからこんな風に自分だけのことでぐちぐち悩んでるんだ、もっといろんな人に会わないといけない、自分はもっと汚れないといけないんだ、と考え、思い切った行動に出ました。(詳しく読みたい方はアメンバー限定バージョンで)

 

 その行動のおかげで、いやな思いも怖い思いも、本当にいろいろありましたが、「世の中にはいろんな人がいる」ということを身をもって知る、という意味では本当に勉強になりましたし、それによって「自分がどういう人間か」他人のフィルターを通して知ること、無駄なプライドを少し捨てることにもつながりました。

 

 どうでもいい相手にでさえ、私は自分をよく思われたい、相手を喜ばせることで自分の存在意義を上げたいという気持ちが強く、自己犠牲を払いがちであること、つまり、自分が一番いやだった母親と同じことをしているということに気づきました。それはなぜだろうと考えたら、結局今まで自分は「他人から評価される自分」や「世の中や誰かが正しいと決めたモラル」を大事にして生きてきたのだということに気づいたんです。そして、世の中にはそんなことを気にせず、自分の欲望に従って生きている人がたくさんいて、そしてその人たちは普通に人から好かれて、許されて生きているんだということに気づいたんです。

 

 私は子供の時から「正しく生きること」「周りに平等にすること」「自分の気持ちより他人の気持ちを優先して相手を喜ばせること」これらにがんじがらめにされて生きてきていたんです。自分なりに自分の好きなことを楽しんで生きてきていたつもりだったのに、そうではなかった。だから、大学で好きにしていいよって言われたとたん、何をしていいかわからなくなり、自分の好きなこと、自分の力を発揮できる場所がわからなくなり、自信を失って、まじめにすることしかできなくて、そうでない自由な人たちを見下すことで自分の正当性を主張しようとしたけれど、上手くいかず、どんどん暗闇のループに落ちていったんです。

 

 また、同年代の相手だとどうしても張り合ってしまって素直になれないところがありましたが、10才とか20才近く年が離れた人だと少し心を許せて素直に甘えられることがわかりました。

 

 当時仲良くしていた年上の人から、「それはファザコンなんだよ」と指摘されました。父親のことを教師としては尊敬していましたが、「お父さん」として甘えられる存在ではなかったので、「え、なんで私がファザコン?お父さんのこと好きじゃないけど?」と思ったけれど、「実際の父親に甘えられないからこそ、代わりに父親のように甘えられる存在を求めているんだよ」と言われて腑に落ちました。私は甘えたかったんだ、と思いました。それまで親に経済的に甘えることはあっても、精神的に甘えたことはなかったし、甘えるなんてみっともない、情けない、私は常に人から頼られる存在のはずだ、その自分が甘えたら相手が困るんじゃないか、そんな自分は愛されないんじゃないかと無意識に思っていたのです。その人は家族でもない、友達でもない、そういう肩書きも何もない関係なのに、なんとなく私を気に入っている、という不思議な人で、なぜか面倒な私の愚痴電話にも延々付き合ってくれました。

 

 あるときいつまでも同じことでループして「でも」「だって」を繰り返す私にその人がついにキレました。私は家族以外の人とけんかするのは苦手で、もうこんな私は嫌われたんだ、もう二度と連絡が来ることはないだろうと思っていました。でも、その人はまた私にやさしく電話してきてくれたんです。「なんで?こんな私に付き合うの面倒でしょ。嫌いでしょ。」と聞くと、「あのね、一度けんかしたから嫌いとか、そんなんじゃないでしょ。そういうときがあってもあなたのこと気に入ってるから。嫌いになんてならないよ。だから怒ったんだし。」と言ってくれたんです。そうか、他人と意見を言い合ってけんかしたり、だめな自分を見せて一時的に相手の気分を害させても、=嫌い、付き合いの終わり、ではないんだ、だからちゃんと自分の思っていることを言ってもいいんだ、常に「いい子」でいなくても、愛される価値はある、というか、そのままの自分を愛されるってこういうことなんだ、と知ったのです。それまで「いい子でいなければ愛される価値がない」と思い込んできた私にとって、これは衝撃的な出来事でした。

 

 そんなことをしながら少しずつ、だめな自分を認められるようになっていったら、今までバカだと見下してきた同級生たちとも普通に仲良くできるようになってきました。でももうその頃には卒業が近づいていました。なので大学時代の友達で今も連絡を取り合うような子は本当に数人しかいません。ただ、SNSのおかげで大人になってから仲良くなれた子や久々に会えた子はいます。本当に人生で一番暗黒の時代でしたが、この経験のおかげで私は早めに自分嫌いの暗い毎日から脱出でき、自分らしく楽しく生きる道への転換をはかれたと思っています。