思えば、本島以外の「お・き・な・わ」に足を踏み入れたのは
初めてのこと。
いわゆる「島時間」や「なんくるないさぁ」精神を感じて
島っていいなぁなんて思ってはっとした。
今まで沖縄に来て、
そう感じていたことがなかったことに気がついた。
そして、ようやく腑に落ちた。
沖縄本土にとって、
基地の存在がどれだけ重い影となっているか。
圧迫感となっているか。
これまで沖縄に来ては感じていた言葉にならない何かは
これだったのだ。
今まさにオスプレイ配備が大問題になっているけれど、
なんて鈍感なんだろう。
現地の新聞「沖縄タイムス」に興味深い記事があった。
社会面で、デッカク暴走族取締りの効果を喧伝している。
この4月から白バイによる取締りをスタートしたところ
暴走行為も市民からの苦情も大幅に減ったという。
⇒ 記事の大筋はこちら
毎年7.7の七夕は、大きな暴走イベントとなっているそうですが、
今年はそれも静かだったよう。
また、8.29も大集会の日だそうで、
今は、そこの取り締まりが焦点だという内容。
でね、実際に“暴走”しているという10代の男の子の言葉が
胸に突き刺さった。
「白バイには叶わない。無理っす。
でも、走ることのほかに
自分がかっこいいと思えることが見つからない」
ああ。
こうした彼らの思いも基地の存在と
沖縄が置かれて続けている状況と無関係ではないだろう。
そういえば、
成人式が荒れることでも知られる沖縄、那覇市。
それも無関係ではないどころか、
彼らの意思ある抗議のひとつの形だ。
この状態、おかしいだろ?!って。
無意識なのか、自覚しているのかわからないけれど。
…今まで対岸の火事と思って眺めていたことを
つきつけられたようで
えらく恥ずかしくなった。
暴走を取り締まって安心している場合ではない。
次にそのエネルギーはどこに向かうのか。
「本質と直面することを避けようとする」のは、
個人個人の資質というよりは、
悲しいかな、民族的なもの。
私たち一人ひとりが内包している資質でもある。
★ ★ ★
そんなとき、どうしてだか、
読んでいる清水眞砂子さんの本にも
沖縄の話題が出てくるのです。
「沖縄にしばらくでも身を置いていると、
今なお事態は沖縄戦当時と
少しも変わっていないのだということが
ひしひしと伝わってくる。
本土の沖縄へのじゅうりんは今なお続いている。
(略)
米軍用地強制使用をめぐる代理署名を拒否した知事を重ねて
告訴する挙に出た首相、政府を私たちは持っている。
それが私たちの“平和”の中身なのだと、
私たちはつねに意識しつづけなければならないだろう。」
こころの中にいつの間にか
「お・き・な・わ」を作ってないか?
そういう構図が自分の周りにないか?
それは変えられるものなのか?
変えるとしたら、何ができるのだろう?
今回の旅で
「お・き・な・わ」という音の響きに
新しい概念が加わった。