そういえば…、
今年の初め、イスラエルを訪れたんだ。
その旅とクリスマス、結びつけて考えたことなかったけれど、
クリスマスはキリスト生誕を記念する日、
その生誕の地を訪れてきたんだった、
ということに前日になってふと気が付きました。
あの地で、後の世界に大きな影響を与えた方がお生まれになったんだなぁ。
ベツレヘム、生誕教会の ‘生誕小屋の再現模型’
ヨーロッパ各地では、
クリスマスになるとこの写真のような人形劇舞台(?)が街角に登場して、
キリストの生誕をお祝いしています。
生誕の地にも同じものがありました。こちらはきっと常設ですね。
カトリック各国のものより人間味をもって表現されているところに私は好感がもてました。リアリティーがある。
よそで見たものは、やたらに神を仰いだり、この先の顛末を思って嘆き憂いていたり、大げさ。
後の世の策意が垣間見れるというか…。
ここで生まれられたのだ、ただそれだけ。
世界中に衛星で中継されるというクリスマス・ミサはこの教会で執り行われるそうです。
清楚で美しい。
イスラエルに行くならこの地もこの目で確かめていたいと思って、
スケジュールに組み込んでもらいました。
ここは、エルサレムから検問を通って「壁」の外に出たパレスチナ自治区。
昨日の朝刊に、
トランプ氏の発言に端を発するイスラエル関連についての「天声人語」が。
トランプ発言については、コメントするにも値しない気分なので、
話題にはしません。
『あ、認めるんだぁ。』と思ったことがあります。
“1948年のイスラエル建国により、70万のパレスチナ人が故郷を追われ難民となった。”
「パレスチナ問題」というと、たいていイスラエル擁護の立場で語られる。
今回は矛先がトランプ氏なので、
それに有利となるなら日頃は伏せている事実を活用するというわけですね?
このくだりを「パレスチナ問題」に当てはめたなら、
パレスチナ人を蛮人のように、イスラエルの空爆がやむを得ないことのように、
語ることはできますか?
世論とは、そうやって事実を都合よくすり替えて囃し立てる。
『この旅で何を感じたのだろう?』
道中に嫌な出来事なんかもあり、なかなか旅だけを純粋に振り返ることもなく、
また、凄くインパクトがあったわけでもなく、
ただ、『とうとう、そこへ行ってきた』、そんな印象だった。
ふと今日振り返ってみて、
事実を事実として受け止める
ことを学んできたのではないかなという気がしてきた。
世界一有名な人、キリストの生涯のストーリーの地を辿って、
欧米キリスト教圏で感じる宗教の威厳とかカリスマ性とはかけ離れた、
素朴な空気しか感じなかった。
世界に伝播するには政治的に利用したり、
誇大説明をしたり畏れさしたり、
そんなことを繰り返して、別の色が塗り足されていったのだろう。
権威や報道、
見せかけの威厳を振るう人とか、
そんなものに惑わされない確かな目、確かな感覚、冷静な判断
いつも心がけたいなと、改めて思うクリスマスです。
もうちょっと浮かれろよ〜っと自分に思わないでもない(苦笑)