30分のセッションでも、かなり大きな気づきは起こりますね。
そして、会話をしていてよく思う事なんですが、、
現実が上向きに展開してい行かない人は、間違いなく大事な要点が観えていない。
本当に、気づきこそ全てです。
何かに失敗して、その失敗から何かを学ぼうとしても、「○○が悪いのだから△△をやれるようにしよう!」などでは自分にムチ打つ付け焼刃なのですよ?
付け焼刃では、一瞬は改善したように見えますが、根底は何も変化していないので、また同じ問題がおこるのです。
気づけない人は、同じ問題が起こっているのに、同じ問題だと思えない。
これは相当に問題です。
過去に起こったAの出来事と、Bの出来事、表面上は全然違うことでも、紐解いていくと全く同じだというのがわかれば、本質的な問題が浮かび上がります。
でも、AとBを全く違う問題だと認識している限り、その根底にたどり着けることはありません。
要するに、解決しないということです。
色んな悩みがありますが、視点がズレている場合、問題の本質は解決しないので、今が最悪だと感じても、見る人がみたらまだまだ落ちるなということが解ります。
絶望に伸びしろがあるということ。
根底の根底に行けば、自分への愛に繋がります。
しかし、さぁ自分を愛しましょうとはなれませんよね?
それはただの結果なのですから。
愛せないことが問題、では愛しましょうと言って愛せたら、何の苦労もありませんわ。
親との問題を抱えた人が多いですが、親を認めない限り自分の半身は愛せないのです。
親との確執がある人は、自分自身を愛せていないということです。
まず第一に、親を乗り越えないと、自分を全身で愛せないってことなんです。
成人しても親の言うことにいちいち左右される人間は、親の支配下から抜けきれていないです。
親の顔色を伺う人はもれなく全員です。
肉体だけ年を取っていますが、自立はできていません。
この問題に取り組まないと、自分の人生は拓けていけないのです。
自分を全身全霊で愛するために、それを乗り越えるのです。
愛とはジャッジしないことです。
愛とは静かで淡々としています。
愛とは、能動的なものです。
受動的な生き方をしている限りは、自分も他人も愛せないということです。
受動的な生き方とはなにか?
自分が達成したい目的が、外側にある生き方のことです。
不安と孤独感に駆り立てられて何かに取り組む人や、お金が欲しいとか自己顕示欲で仕事に取り組む人は、一見情熱的に思えますが、受動的な生き方です。
そこには、しなければならないという、自分を追い込む根底があるからです。
こちらの相談者はまさに受動思考であり、全てが、自分の意思ではなく、駆り立てられることからの行動です。
それをしなければ私は不幸になるのだ!!!
この方は、常にこの恐怖に支配されているのです。
だから、自分への戒律が厳しいことも見て取れますよね。
だから、トイレに行きたいという生理的欲求さえも無視できるのです。
自分の外側にある目的のためにエネルギーを使うと、人は壊れていきます。
それは檻の中だから。
自分ファーストである生き方をしてる時、人は自由です。
自分ファーストとは、自己中とは違います。
感情の僕になっているとき、人は駆り立てられ、受動的な生き方になります。
そこには愛はありません。
その状態の時、人は誰も愛せません。
誰かを羨ましがり、嫉妬し、野心をむき出しにし、貪欲になっているとき、人は愛を与えることはできません。
愛することは、己が自由な人にしかできないのです。
感情に支配されている状態では、誰も愛せないということ。
愛とは、与えることです。
与えることに対して、奪われると感じる人や、自分の分が減ると感じる価値観の人には、本質的にできないことなのです。
犠牲を払うこと、耐えることが素晴らしい事だと思う人にも与えることはできません。
与えることにより、自分の生命力が満ちてくるということが理解できていなければ、与えるということは不可能なのです。
愛は、与えれば与えるほどに相手も自分も満ちるものです。
愛とは、誰にでも備わったものではないということがわかりますね。
自分を愛する、他人を愛する。
ここに到達するには、精神的に成長する以外にないということです。
立ち話やゲームやLINEや映画などは、全て受動的な行動です。
全て受け身です。
能動的になるには、このような活動から離れる必要があります。
そして、静かな時間を持つことです。
内側から能動的になるには、静かな時間を持つことです。
また書きます。
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