「憶える」とは「思い出せるようにする」こと | アメリカ暮らしほぼ30年おじさん

アメリカ暮らしほぼ30年おじさん

留学でアメリカへきていつの間にやら30年近く経過。日本への永住帰国のプランはもはやなし。誠に遺憾です。

ハッキリ言ってしまおう。試験勉強はほとんどが記憶する作業だ。理解することが大事な場合であっても、まずは憶えてしまうことが重要。若いうちは理解できれば自然と憶えるなんて言うけど、実際には理解することと憶えることは別物で、相互作用があるというだけの話。意味があろうがなかろうが憶えることはできる。憶えたやつが勝ちという世界である。

 

憶えることは年を取ると苦手になると言われる。若い脳をスポンジに例えるなら、50過ぎの人間の脳はなんだろう?なかなか水を吸わないタオルかな。でも自分が50過ぎて実感していることをむしろポジティブに言ってみたい。年を取ると、忘れるのが早い分、記憶作業がかえってはかどる。なんのこっちゃ?

 

そもそも「憶える」とは、思い出したいときにすぐ思い出せるということ。顕在意識に短期記憶しておくのは憶える作業の最初のプロセスでしかない。一夜漬けの記憶は顕在意識にため込んだだけの知識。しかし記憶が定着するためには、まず顕在意識では忘れるという工程がある。そう、思い出せるようになろうとするならいったん忘れなくてはいけない。つまり、顕在意識からいったん消さないといけない。

 

思い出すとは、潜在意識の中に沈んだ情報を必要な時にすぐ引っ張り出せるということ。それができるようになった状態を「憶えた」と言う。いつまでも忘れない知識とは、この思い出し作業を様々なインターバルを入れて何度も何度も繰り返した知識である。

 

そうなると、本当に憶えるためには時間がかかる。なぜなら憶える前にいったん忘れないといけないから。忘れるのには時間がかかる。若いときはやったことを忘れるのに時間がかかるのである。

 

記憶を定着させるために必要な「思い出し作業」。これを効率のいいスケジュール(インターバル)でやればいいわけだ。

 

まず10分後。若いうちは大体覚えている。年を取っていると、もう忘れていて驚愕する。思い出せなかったら儲けもの。もう一回顕在意識で記憶する。よし憶えた、と言って記憶を潜在意識に沈める(忘れる)。

 

つぎに1時間後。思い出せなかったら儲けもの。もう一回顕在意識で記憶する。よし憶えた、と言って記憶を潜在意識に沈める(忘れる)。

 

次に24時間後。思い出せなかったら儲けもの。もう一回顕在意識で記憶する。よし憶えた、と言って記憶を潜在意識に沈める(忘れる)。

 

こんな感じで忘れる、思い出し作業をする、を繰り返す。忘れることを恐れる必要はない。むしろ忘れてたら喜べ。もういちど知識を刷り込ませることができるのだから。

 

 自分はこのプロセスを、顕在意識と潜在意識のチャンネル(パイプ)を太くする作業とイメージしている。何度も往復させるうちにやがて知識がスムーズにパイプを通過するようになったのが憶えたという状態だと。

 

人間の脳はありとあらゆることを潜在意識では憶えているという話もある。だとしたらやはり「憶える」ではなく「思い出せるようにする」のほうが正しい。

 

以上のような「憶える」プロセスにおいて、年を取った脳は「忘れる」部分が得意のなんの。つまりは若い人よりもすぐに思い出し作業ができるのだ。短い期間により多くの再刷り込みができるのはアドバンテージだ(と思う)。

 

それに、最初の方で50過ぎの脳を例えるなら水を吸いにくいタオルと言ったけど、大人の方が、一度憶えたことを忘れにくいと思う。子供って憶えるのは早いが、忘れるのも早い。

 

なので、人は年齢に応じた勉強法というのをまず知っておくべきなのではないだろうか。年を取ったら憶えることができない、だから勉強は若い人にかなわない、というのは正しくないと思う。年をとっても刷り込みのスケジュールを年齢に応じてアジャストすれば若い人と同じぐらい新しいことを学び続けることは普通に可能だと思う。

 

専門職で働く人間にとって、もう何も新しいことを学ぶ必要はない日などリタイアするときまでやってこないと思っている。そこまで厳しく考えなくてもいいだろうか?でも意識としてはそうあるべき。じゃないとある日肩を叩かれかねないもの。せめて謙虚さだけは何があっても失わないようにしようと思う。自分にとって謙虚さとはイコール学び続けられる姿勢のこと。