奈良博「空海」展の最終日にイベント「空海に近づく」が興福寺会館で開催されました。

 

駅チカですが、ちょい分かりくい場所で、お見かけした講演者の西山厚先生についていくことができてラッキー。

 

 

大安寺貫主河野良文師

南都七大寺として知られる大安寺貫主河野良文師は福岡県のご出身。

 

奈良博で大安寺の展覧会もありました。

 

 

遺言である弘法大師二十五箇条遺告にも「本寺とせよ」と大安寺が登場します。

 

僧侶にとって外国語であるお経を覚えることが当時も今もの重要な任務。記憶力をアップする求聞持法空海は大安寺の勤操(ごんそう)か伝授。これ、チーズを作って食べるというのもあって面白い↓


 

平安時代に描かれた勤操の国宝肖像画は生き生きとして声が聞こえてくるようです。

空海が師を偲んで追悼文を記したと伝わり、高野山普門院が所持します。


求聞持法のエピソードは阿·吽にも登場するらしい。

 

勤操が空海を剃髪した際の髪が寺に伝わっています(場所は大阪の施福寺)。


現在の大安寺は真言宗ですが当時は三論宗。

 

ここで質問、求聞持法は密教なん?

 

密教って書いてあるから↓、奈良時代に断片的に導入されていた雑密なんかな?

 

ふむふむ

 

西山厚氏

1,空海はどのように遣唐使に選ばれ、短期間で帰国できたのか?

803年に20年ぶりに遣唐使が再開。ところが、出発した船は日本を出ることなく神戸あたりで座礁えーん

 

804年に再出発したメンバーの一人に空海が選ばれました。出発前ギリギリに正式に東大寺で出家したようです。国費留学生ではなく私費留学生なので資金も集めも難題だった筈。それまでの経歴は謎の部分が多く、どうやって留学までこぎつけたのか謎です!?

 

 

 

 

 

空海が唐で出会った師匠の恵果は皇帝からも崇敬された密教僧。弟子になったばかりの空海に伝法灌頂を授けてすぐに逝去(805年)。

 

 

空海は阿闍梨となり一人前の密教僧になりました。

 

本来、20年と法律で決められた唐滞在を2年に短縮できた経緯も驚きですポーン唐の皇帝、徳宗(空海と共に渡航した役人が謁見した皇帝)が亡くなり、新皇帝、順宗への挨拶のために使節が臨時で日本から派遣。まず、船の便がないと帰国できません。

順宗も日本から使節が到着する前に逝去し、憲宗に交替。

 

持前の文章力で帰国に必要な許可をまず憲宗から得て、次に日本から来た使節も説得し、空海は帰国に漕ぎ着けたのでしょう。

 

唐での空海の活躍を描いた小説が歌舞伎になり、憲宗登場。

 

 

次に遣唐使が送られたのは838年の空海の没後です殻そのまま唐に留まっていたら命があったかどうか不明です。「事実は小説より奇なり」そのまま。

 

2,空海の誕生日

空海の誕生日は6月15日とされ、真言宗の寺院ではイベントをするところ多数です。実は不明でびっくり、中国密教の大成者である不空の生まれ変わりということで、彼の命日を空海の誕生日に当てているだけやって。

 

 

3、その他

·密教では目に見える結果を大事にすることが顕教との違い

·顕教は病気を原因を探る病理学、密教は治療に例えられる

·密教が導入されると悔過儀式が中止になったが、東大寺が例外的に現在を続けている

 

 

私も頭の整理ができたわ~

 

とすると悔過がなくるなるのは密教儀式のアップデートということやね。

 

(続く)