王寺町観光協会主催のツアーで大阪の聖徳太子ゆかりの寺巡りをしました(2022年11月24日)。

 

講師は元奈良国立博物館の学芸員、西山厚先生。

 

大阪府八尾市物部氏の本拠地で、東側の山を越えると後に聖徳太子が本拠地とした斑鳩があります。大和川の横を流れるので古代の交通の要衝やったんでしょう。

仏教導入を巡って蘇我氏と戦った古戦場が大聖勝軍寺の周辺にあります。丁未(ていび)の乱(587年)です。

物部氏のリーダー守屋の首を洗ったと伝わる池。

 

まだ少年だった聖徳太子は崇仏派、蘇我側でしたが、軍事豪族でもあった物部氏は強敵。「勝ったなら仏堂をお作りします」と太子は四天王を自ら彫って祈り、見事戦勝。木の上にいた守屋は鏑矢で射られたと伝わります。

 

 

江戸時代からの名所というか、江戸時代のほうが名所?

 

江戸時代のガイドブック

 

鏑矢って、戦いの初めに威嚇のための音が出る特殊な矢らしい。よーい、ドンのドンに相当する音か。

 

おっほんまに音が出てるけど、ガチャで出てくる笛みたいな音。youtube便利ラブ

 

平安時代の藤原道長全盛期に九州北部を刀伊(↓によると夷狄を意味する韓国語らしい)が襲撃した際に、相手が鏑矢の音に驚いて退却という話を伺いました。

 

 

 

大聖勝軍寺

聖徳太子ゆかりの真言宗のお寺で、通称、「下の太子」。日本書記にも登場します。

 

 

八尾市のPR動画

 

太子が巨木に隠れた、という伝承が伝わります。14歳ぐらいの少年やからスリムで機敏。

 

聖徳太子が彫って戦勝祈願したと伝わる四天王を祀るお堂。

 

一列で南面している四天王を拝見。四方の方角を護る四天王は、通常、空間の四隅に配置されます↓

 

境内にある石造の四天王は太子像を中心に普通のフォーメーション。

 

かつて、大阪の四天王寺でも、四天王が西一列に並んでいたそうです。

 

ここの四天王は大阪の四天王寺のコピーなので、古式に作成。↓では平安から鎌倉時代の制作とされていました。

 

曼荼羅についての説明が西山先生からありました。博物館では両界曼荼羅を二つ横に並べて展示しますが、本来は向かい合うもの。

 

正面に向かって右、東側に胎蔵界(たいぞうかい)曼荼羅、向かって左、西側に金剛界(こんごうかい)曼荼羅で、この間に仏様がおられます。エネルギーは胎蔵界→金剛界と流れます。

 

 

 

守屋塚:実は地元の人気者

大聖勝軍寺に隣にある守屋のお墓は現在、有名神社から奉納された石碑が立ち並び、きれいに整備されています。

 

明治初年に、「守屋は神社の護り神」と再評価されました。太子の仏教的な慈悲で守屋がきちんと弔われたとされています。太子は物部氏と縁戚関係にありました。

 

 

水戸光圀が編纂を始めた大日本史など江戸時代に日本史の研究が進んだことが物部氏再評価の背景にあります。敗れた側を弔っていますが、御霊信仰ではありません。

 

 

稲城址

次は当初の予定変更して、光蓮寺へ。

 

ここは物部軍の本拠地、稲城(いなき)址です。

 

 

聖徳太子の創建の宝積寺(現在の渋川神社のあたり?)が前身と伝わります。物部氏は樟本神社の神様を氏神としていたようです。

 

蓮如↓に帰依して浄土真宗となり、慶長年間(関ケ原戦→大阪冬の陣、大阪夏の陣)に現在地に移転。

 

 

ご住職の話では、覚如が阿弥陀如来を浄土真宗の本尊として統一。それ以前には、聖徳太子を本尊とした宗派が東海、北陸では盛ん。そこでは、大工などの職人の信者が多かったようです。

 

このお寺にも聖徳太子像が蔵の中に。

 

写真OKでした。

 

1768年再建の本堂の欄間。

 

 

本堂にも太子像。室戸台風では傾いたらしい。

 

ここまで、読んで頂きまして、ありがとうございます😊皆様、良いお年をお迎えください❣️

 

来年に続きます。