大阪市立美術館で開催されている聖徳太子展に行ってきました。

 



 

 

映像:府内の太子ゆかりの寺

講堂前で流していたビデオで、太子が物部氏の軍勢から隠れたといわれるの木が八尾市の大聖勝軍寺(下ノ太子)にあることや太子のお墓(古墳)が奈良との県境にある太子町叡福寺(上ノ太子)にあることを知りました。

 

 

 

叡福寺の周りには太子のお墓とされる古墳だけではなく、父の用明天皇陵推古天皇陵もあります。


講演:四天王寺の太子信仰

お目当ては13時半からの講演会。整理券待ちの列が長くなり、博物館は席を増やす対応をしたので、結構、密な状態で講演。

 

さりぃは実は四天王寺は行ったことはありません。寺は美術館から徒歩圏にあって、今回の展覧会の主宰者。展覧会開催中は寺のお坊さんが毎週土曜日1100から博物館で絵伝の絵解きをします。

 



演者の南谷恵敬師は、7歳で得度されびっくり大学院で美学を専修されています。

 

内容は太子の紹介、寺の歴史、寺からの出品物の紹介でした。

 

聖徳太子の生涯

太子の両親は異母兄弟(どちらも父は欽明天皇)で古代ではよくある話です。日本書記では太子をすごい人と持ち上げています(呼称は聖徳太子ではありません)。

 

生前の名前は厩戸(うまやと)王の他、豊耳など複数の呼称があります。厩戸の由来には、蘇我馬子の次という意味(ミニ馬子か?)、あるいは、地名説などあります。豊耳は理解力に優れているという意味。絵伝では、馬小屋の側で生まれたことになっています。

 

百済王から欽明天皇におそらく金銅仏が送られたのが日本書記では仏教公伝とされる552年です。

物部氏や祭祀を司る中臣氏も反対し、すぐには仏教受容とはいきません。

 

用明天皇の死後、587年、実際には14歳ぐらいで太子は仏教導入を巡る崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏の戦いに参加しました。物部氏は軍事も担う豪族だったので、蘇我側は苦戦。太子は、戦いに勝つことができれば、四天王を安置する寺院を建てると誓願しました。軍勢を立て直した蘇我氏は物部氏の長守屋を弓で射殺して勝利を収めました。これが、日本初の官寺、四天王寺の縁起です。

 


軍事豪族と戦うぐらいなので、蘇我氏も何か切札となる兵器を大陸から仕入れたのでしょうか?


太子は、日本発の女帝推古天皇の摂政となり、冠位十二階、十七条の憲法を制定します。憲法は役人の心得で、現在でも十分通用する内容です。これらが制定された年は、新しいことを始めるのに相応しいとされたので、あらかじめ準備をして暦に合わせたようです。冠位十二階について、いつ頃まで、制度が続いたのか、興味があるところです。

 

太子は小野妹子など遣隋使を送りました。天子と名乗り随の皇帝の怒りを買いましたが、一方で菩薩天子と相手を持ち上げて何とか大国との交流を始めました。それ以前に中国の王朝に使いを送ったのは倭の五王といわれています。

 

以後、太子は政治から仏教に軸足を移し、経典の注釈書を書き、講義をしました。


太子の没後、後継ぎとなった山背大兄王(やましろのおおえのおうじ)は蘇我入鹿に襲撃され、一族は滅亡しました。

 

(続く)