円満院の後は角を曲がった先にある大津市歴史博物館の講座「戦国期の日吉社の復興」へ。
伝教大師最澄没後1200年企画展(9月4日まで)の関連講座。
展覧会
企画展では日吉大社西本宮の日本最大の大狛犬と獅子が出展中。木製ですが男性6人でも担ぐのは一苦労だったそう。西本宮に現在、狛犬はおりません。
日吉大社さん、ブログを書かれています。
これらは信長焼き討ち後に復興。床上にあることも特徴で、仏師康正作とされています。
延暦寺根本中堂の十二神将
仏像修復 先人の魂継ぐ https://t.co/YZmsLMgSuw 織田信長の比叡山焼き打ち(1571年)を免れていたことが分かった延暦寺・根本中堂の「十二神将」の像(鎌倉時代後期)などを展示する企画展「仏像をなおす」が23日、大津市御陵町の市歴史博物館で始まった。傷んだり焼失したりした仏像などを…
— museumnews jp (@museumnews_jp) July 24, 2022
えっ鎌倉時代作。
会場では気が付かず。出品リストには鎌倉時代に。ブログを書いて見直すと得るものが多いわ。
京都国立博物館にも出展され写真可でしたが、全員サバイバー展示準備段階ではわかってなかったんかなぁ。
📸展示作業リポート
— 紡ぐ Japan Art & Culture (@art_tsumugu) October 7, 2021
東博の会場には #延暦寺 ・根本中堂の内部を再現した空間が設けられます。
十二神将像の一部などと合わせて、かつて #不滅の法灯 を納めていた燈籠の設営も行いました。重機で慎重に持ち上げた後、数人がかりで台の上に乗せていきます。
実際の展示を見るのが楽しみですね! pic.twitter.com/SDp9FZgzxn
↓京都国立博物館の天台展
講演会
下鴨神社の元禰宜で日吉大社でも長く神職を務められた嵯峨井建(さがいたつる)氏の講演。
なごませキャラで、寒いだろうから狛犬の頭に積もった雪を払ってあげたんだよ~という話も。
おはようございます!
— 日吉大社 (@hiyoshitaisha) March 3, 2022
厄除の日吉大社です。#日吉大社#厄除 pic.twitter.com/GK7N0wnh9l
講演後、狛犬達の色を質問しました。もともとの色は金と銀で髪は青で縁取りは緑。再建当時からのものなので、肉眼では色は不明。下賀茂神社でも狛犬達が本殿の回廊に置かれていますが、式年遷宮で蘇った青が鮮やか。
中世の日吉社
全国に約3,800社ある日吉・日枝・山王神社の総本社。通称は山王権現ですが山王から日吉にいつ名前が変わったのか不明だそう。
鎌倉時代初頭の「耀天記」(ようてんき)に祭祀などが詳細に記録され、山王神道の経典となっています。伊勢神宮にはこういう由来書はないそうです。
室町時代に山王信仰が盛んになり将軍が日吉祭を拝観したり(1548年)、社参(1564年)したりなど記録されています。これも行丸の功績かも。
焼き討ち(1571年)
日吉大社の祝部(はふりべ)行丸(1511年生)は焼き討ちを生き延び大社の再興を果たしました。西本宮に大神神社を勧請した際に三輪明神から宇志丸は神職の任命を受け、その子孫とされます。平安時代に二大社家(生源寺家、樹下家)に分かれ、行丸は生源寺家の出身。
今日は何の日??
— 日吉大社 (@hiyoshitaisha) September 11, 2020
元亀二年(1571)9月12日 明け方
織田信長は延暦寺衆徒が朝倉義景に
党することをにくみ、
兵船を出して下阪本に至り、
民家を焼き払い日吉社に攻める。
山王七社から大鳥居までことごとく焼亡。 pic.twitter.com/D4HYuaBoz9
焼き討ちが始まると行丸は帯刀して、長子と共に西本宮で信長勢を待機したものの信長勢に褌ひとつの姿にされて縛られました。襲撃途中にかっさらってきたであろう衣服、帷子、を与えられた上、長子と共に行丸は逃がされました。剃髪をした僧形ではなかったことポイントと先生はおっしゃっていました。
社僧も助かって後に戻ってきました。こちらは僧形なの助かったのは謎らしい。信長方の日吉大社担当者は最初から助けるつもりだった感じがします。
↓ふむふむ
日吉大社の大蔵卿行丸以下の社家は、衣類から下着に扇子や鼻紙に腰刀大小まで奪われたものの、地元の永原越前守配下の軍勢に助命されて襤褸衣を恵まれて助かった。#麒麟がくる
— 武図書 (@take10syo) November 29, 2020
社僧は客人宮下殿の荒魂(あらみたま)、30センチぐらい?の像を守って帰ってきました。残念ながら、お像は明治期の廃仏毀釈の際に失われたようです。
逃避行中の行丸は、法華経を守護する熱田神宮に社参して、復興の願をかけたようです。また社領があった出雲にも出向きました。復興の勧進準備のために「日吉神社神役年中行事」、「日吉神社神道秘密記」、「日吉神社二十一社等絵図」をなどの著述に息子と共に勤しみました。還暦を過ぎて焼け出されて、凄いパワー!
三年半後の1575年には日吉社に戻って堅田の八所神社で仮の日吉祭を斎行。
1578年には坂本城より、内密に復興のための木材の提供を受けました。その材はちょっと他の材より細かったので、西本宮の外から見えないところに使われています。その時の城主は豊臣秀吉と姻戚関係のある浅野長政。
1582年、本能寺の変で信長親子が討たれると、その年のうちに山王七社の仮殿を建立。早っ!
山王七社の屋根には水の流れを表したような波線や巴紋、龍神の装飾があります。天恵を呼び込み、水の霊力を得て火事や厄魔を防ぐ意匠です。 pic.twitter.com/hOIACzSJuY
— 日吉大社 (@hiyoshitaisha) June 17, 2013
「山王七社の御正体」
— ななはん (@nanahann) February 9, 2020
東博保管「日枝山王七社の御正体」
日吉(枝)神社は近江の比叡山の麓、八王子、大宮
客人など七社の神は、本地垂迹説で薬師、不動、阿弥陀など仏、菩薩の姿で描き、彫られた。
この大きな鏡のような中に九つの仏が彫られ
「山王権現のみ正体」として崇敬を受けた pic.twitter.com/aSS8L5YXzT
翌年もご神体を彫る勅許を得て、さらに仮殿を建てて復興を進めました。比叡山のほうでは、同年、青蓮院から12年ぶりに天台座主尊朝が出ました。
延暦寺で天海僧正が活躍するのは、1600年の関ヶ原の戦いの後なので、行丸とは時期がかぶりません。行丸の活躍を見て、こりゃやっぱ人材だ!となって、抜擢人事が行われたかも。
結論として、中世祭祀や施設がおおむね復興。建物の中には七重の大塔など復興されなかったものもあります。大社と延暦寺の関係、宮寺体制も変わりなし。行丸が仏師康正と延暦寺を飛び越えて直接交渉し、ちょっと揉めたらしい。行丸は大社の復興が進む中1592年に 81歳で没。
山王宮曼荼羅 pic.twitter.com/8yHXVB2g6L
— すゐしん (@1994_Suishin) July 23, 2021
行丸の作った絵図は、彼の理想を反映した「盛った」絵図で、正確な実写ではありません息子の行広作の山王七社を俯瞰して描いた曼荼羅は風景画に見えますが、北斗七星に例えられた七社を室内で回峰行をするための宮曼荼羅
↓大社の詳細な歴史
行丸すごいわ〜❗️
(終わり)