今日はまいまい京都で寺町・新京極に。ブラタモリの新京極の回は見逃しで見ておりません💦

 

平安京の名残

井戸水に恵まれ、平安時代から錦市場の辺りには魚市場がたったようです。現在でも市場は井戸水を使用しています。お商売は料亭などに魚をさばいて納めるBtoBが多いとか。

 

 

錦市場と伊藤若冲(彼は八百屋)についてはこちら↓

 

江戸時代には徳川幕府公認の市場となり、明治期まで卸売市場の役割も果たしていました。鉄道輸送に対応して1927年に中央卸市場鮮魚部がJR丹波口駅横でき、錦市場からも店舗の移転がありました。

 

 

錦天満宮には同じ井戸水があります。

 

秀吉の都市改造

天下統一を果たした豊臣秀吉は長い戦乱で疲弊した京都の都市改造を実施。

高さ約5メートルのお土居、防塁、を築いて、洛中と洛外を分けました。御土居の中の税金は貨幣、外は米というシステムも導入びっくり

 

平安京東京極大路から鴨川までの間の土地はそれまでは田畑で、この辺りの御土居は堤防としても機能しました。

 

 

市中の寺を御土居の東側に集めたので、寺町通りと呼ばれるようになりました。

 

中世のお寺はアジール(治外法権)で駆け込めば離縁もできるし、犯罪者も司法の手を逃れることができましたガーン

 

寺に武器を持ち込んで、謀反の拠点することが定石になったこともあって、秀吉は浄土宗の寺を中心に寺町を形成。西陣には主に日蓮宗を中心に寺を集めました。

 

 

本能寺織田信長が襲撃された時は二条城の傍にありましたが、寺町に移転して現在に至ります。

 

本能寺の南側を通る姉小路通は秀吉の都市改造以降にできた「新しい」道。

 

お寺はそれぞれ本山として機能していたので、地方の末寺から物見遊山を兼ねて、旅行者を多く迎えました。

 

 

書物、数珠など当時からお寺御用達の店が今でも軒を連ねています。袈裟屋さんがテーラーになった例も。寺町を形成することで当時から観光地化され、お寺にも経済効果が波及。

 

鳩居堂もこちらが発祥の地。

 

寺町が栄えていたこともあって、東海道五十三次の最終地点がここからすぐの三条大橋となったという説も。

 

統治⇒経済的繁栄

の短期的にも、長期的にも実現する秀吉のビジョンが凄いびっくり

 

寺町の誓願寺から上方落語が生まれたといわれています。

 

 

誓願寺の入口には迷子案内に相当する石碑が江戸時代からあり、往時の賑わいを伝えます。

 

蛸薬師通の名前の由来と京都市内の地名表示の説明がありましたが略。

 

 

寺町三条は交差はいびつ。

 

平安京では中国に倣った条坊制が採用され町には碁盤の目に道路が敷設。交通量に関係なく、現在よりも幅が広いところがほとんど。牛車のすれ違いのためやろか?例えば、三条通りは東海道や山陰道につながるメインストリートで幅は24メートル。

 

上からみると…

中世以降、繫華街では店が道路にせり出しました(現在なら不法占拠)。三条通りより北側は西側がせり出し、南は東側がせり出した結果、歪な交差点に。うーん古代の都市計画という超特殊事情!

 

京極通りを四条通につき当たったところにあるお土産物屋さん。祇園祭りの間は神様をお迎えする八坂神社四条御旅所に変身、というかそちらが本業。祭の肝は、神様のお迎えで鉾は神様のための賑やかし。ここも秀吉が統合移転。

 

 

 

(続く)