おもしろ人生

おもしろ人生

国内ファンド会社の外務員から外資系生保のライフプランナーを経て
国内最大手損保会社の正社員になるも、お客様を本気で守るために
会社を退職し、貧弱代理店を立ち上げた一人の男の生き様を見よ

うーん、何から話そうか。
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高校受験は、希望した私立高校を併願で受けた。んーーーーー、それがなんと、不合格。


私立の併願は、落としたら地獄ですよ、なぜか?併願が合格した場合の3ランクぐらい下の


高校を受けなくてはいけないのだー。


完全にテンションがさがりました。いっしょに私立を受けた同級生の約8割が落ちたんだけど


そんな事って、ありえる??って感じだった。そこでいっしょに落ちたセットン(あだ名)と


みんなが知らん高校行こうと、いうことになり、田舎の高校に行くことにした。


しかし、それがある意味、人生を変える出会いがあろうとは、。。。。。

んで、3年になったんだけど、当時、偏差値ってのがあって、学力テストで結果がわかるのね、


1学期のテストで偏差値、56、志望校は、内申を考えると60以上、先生はこのままだと


志望校さげよーねといわれてしまった。んで夏休み、俺は、計画表を作り、朝、6時~夜12時まで


めしと、ふろとトイレ以外は勉強した。五教科全部、とにかく、参考書や教科書をノートに


チャート状に写しまくるという戦法で学習した。マインドマップみたいな感じでね、それまでの俺は


いいところ、ひとつも無かったけど、中三の夏休みだけは、自分をほめてあげたいね


そーいえば、その頃、サイダーを飲むのに早く冷やそうとして冷凍庫に入れたのね、


んで、すっかり忘れて、朝、思い出して冷凍庫を開けると、ジューといいながら、凍ってたの、


うわ、完全に凍ってるわと思って、手で取り出したとたんに、バーンといってサイダーのびんが割れ


俺の右腕を切り裂いたのよで、すぐ病院に行ったんだけど、まだ、早朝、で中々、縫ってもらえませんでした。


あ、っと、話を戻すと、2学期の実力テストの結果は、なんと偏差値、65でした。


先生も短期間に偏差値で9ポイントも上がったのは初めてみた。と言われ、友達からも、


さりー、偏差値65は、天才の仲間入りやぞーとか言われ、有頂天、あるいは、てんぐになってしまった。


せっかく、上がり始めた成績も、ほっとして手を抜くようになって、次のテストでは、61まで下がってしまった


どうなることやら。。。



しかし、入江先生は、えらかったなー、「奇跡の入江塾」とか奇跡シリーズで本もだしていたし、


当時、文部省の学校教育にまっこうから挑戦してたよなー、おもしろいエピソードにどっかの


PTAの会長が、入江塾の生徒は、夏でも色が真っ白で不健康であるしかわいそう、と言った意見に対して、


「ばか者、そんなの、海に一日いったら真っ黒になる。うちの塾生は、目標の高校、大学に入るため


必死になって勉強しておる。」「甲子園に行きたいといって、野球の練習を必死でやっている子供たちを


をあなたはかわいそうと思うのか」うーんなるほど、体力に関しても、当時、学校のカバンの3~5倍ぐらいの


重さのカバンで1時間ぐらい歩いて塾に通っていたから、体力も問題なかったなー、


しかし、自分の人生であのほど、1日中、眠りたいと思ったことはなかったな、


3年になったとき、塾をやめたけど、眠たいから、が第一の理由っだったと思うなあ


しかし、勉強せなあかん、のは分っててなかなかできないのが、人間だね、自分の中の


もう一人の自分とが、戦っている状態なんだよね。でも当時は長いと感じた一年は


あっと言う間にすぎ、3年生に突入するのであった。(あ、ちなみに入江塾は、丸刈りね)

んで、その勢いで中2の夏休みは、入江塾の林間合宿、これは、すごいよ、1期~4期に分かれていて、


俺は全期申し込んだ。すげーな、自分でも思う。。多分、お金も40万円近く、かかったと思う。


でも、東大に行くためには、安いもんだ。と、親を説得して行かせてもらった。おかんが、店やってたから


なんとかなったんやろね、今、俺の子がそんなん行くって言えば、絶対行かせないと思う。


しかし、夏休みの40日間を勉強合宿ですごす。。シュールだねえ、 


よっぽど、かしこくなったかって?  聞かんでくれ、今、俺がその時の自分に


アドバイスできたら、1、まず、黙想して集中力をあげろ


2、この5分でいいから、問題集だけのことを考えろ、


と、短時間でいいから、集中するくせをつけさせたいな、


それで、合宿といっても、俺にとっては、高い旅行だけな感じね



それで当時、あんまりクーラーがなかったんで扇風機が回ってるんだけど


合宿所はすっげー田舎にあるから、せみがたくさん飛んでて


なぜか、扇風機の中に飛び込んでばらばらになるのね、


「バツン」って音がして、なんか、テンション下がるわーてね


それで、当時の中学生って、ブラジャーとかつけてないから、


合宿場は、基本、たいそう服みたいなのを着てるんだけど、


おっぱいの先がうっすらすけるんだよね、んで思わず、


おっぱいに釘付けになっていると「その子に、「どこみてるん?」


と言われ、すっげーはずかしい思いしたね、そのとき、はじめて


目線からどこ見てるか、相手に知られるって気づいたね。


みんなもチラミに気をつけよう、大人は、心で思っても、口に出さないだけだよ。

んで、中学生になって、生まれかわってがんばろって思ったね、その頃、小林よしのりの


東大一直線って言う漫画が好きで、受験そのものになんとなくあこがれていた。


深夜ラジオを聴きながら、一応、遅くまで起きていたね、毎日放送のヤングタウンとか、


なんかヤング海賊船てのもやっていたっけ、でも、遅くまで起きているだけで


全然勉強していなかった。  うーんバカだね、バカだけど、やる気だけはあったんだろね


んで当時、入江塾っていって、大阪で有名な塾があって、めざせ、灘高、東大


っていう、当時の俺にとっては、うってつけの塾があったの、中一の終わりぐらいに


入塾したんだけど、、、


うーん、すごい塾だったなー、学校が終わって、家に帰ってすぐ行くんだけど、5時~9時ぐらいまで


授業があって、その後、自習ができるんよ、んで帰るのが夜中の一時だよ。。


しかも、年中無休でやってたなー、あのころ、一緒に入江塾で勉強していた優秀なやつらは


今も優秀なんだろうなー、


そんで入江塾は、クラスがA組~F組まで2ヶ月ぐらいごとに試験でクラスわけ


する。あ、S組っていうのもあったような、、俺?、俺はもちろん、万年、Fクラスだよ


だから、勉強してるつもりだけで、時間ばっかり使ってたんだよなー


おもろなってきたから、次回も入江塾 編です。

小学校の友達は、オンガンとナンミンというあだなの子が、主な友達だ。


それと、ドラえもんのすね夫に似た、つつみって言うのもいたっけ。


オンガンとは、毎日、一緒に学校に行き、いつも、遊んでいたが、


毎日、けんかしていた。けんかと言っても、殴り合いだ。服もボロボロだ。


今、考えると何が原因かわからない。イライラしていたのか。


毎日、顔の一部が、腫れ、全身、青あざだらけだった。


しかし、そのあと、夜、いっしょに銭湯にいったり


仲がいいのか、悪いのか、わからん関係だった。


今でもたまに、合っている。


話はかわるが、小学校のころ、宿題が毎日出たが、


俺は多分一回もしていったことがない。学校で怒られるので


そのときは、して行こうと思うのだが、気づくと


翌朝なので、「あ、また忘れた。」という毎日だ。


言い訳にはならないが、母も店が忙しくて、


ほったらかしと言うの遠因かもしれない。


一ヶ月ぐらい、同じ服を着ていたらしい。


今でいう、ネグレストってやつか。


そのころ、このままやったら、西成のルンペンになるかも知れんと


本気で思っていた。高校も行くところが、なかったらどうしよー


とか考えたりした。しかし、無常にも小学校は、卒業することになった。


そのときは、中学生になったら、がんばろーとか思っていた。

んでもって、引越ししてしばらくすると、母が家で商売するといいだした。


「なんで、店するん?」と聞くと、お父さんが「11万円しか、家に入れん」と言っていたが


11万あったら、足りへんのかな、足りるやろと思ったが、別に深く考えんかった。


家の一階がガレージなのだが、改造して、おでんとたこ焼きの店を無理やり


スタートした。昼は、ご飯屋で、夜は、一杯飲み屋みたいな感じでけっこうはやってた。


俺は、たこ焼きを1個、5円くらいで売って欲しかったが、実際は、けっこう高く売っていた。


当時、たこ焼きが大好きだったが、毎日、売れ残りのたこ焼きを食べて、知らないあいだに


たこ焼きがきらいになっていた。大好きなものも、ほどほどにせねば、と勉強になった。


結婚する前、大好きだった、彼女も結婚すると変わるのに似ている気がする。


注意しよう。話をもどすが、たこ焼きの値段は、


一船、300円ぐらいやったと思う。ある日、たこ焼きを買ってくれた友達が、


「おばちゃん、タコはいってないねんけど。。」というと、何も言わず、50円返金していた。


俺は、全額返すのが筋やと思ったが、なんとなく母の目が怒っていたのでだまっていた。


次の日、「サリー君のとこのたこ焼き、たこが入ってないぞー」といいふらされ、


また、イジメねたになったのは、言うまでもない。そんだけガメツクやって


儲かってきたのだろう、2年ぐらいたって、ある日、店を改造しだした。


しばらくして出来たのは、、豪勢なカラオケスナックだった。


となりのおばはんに「きたな店がなくなってよかったね」と言われたと、


何年たっても、言っていた。よほど悔しかったのであろう^


こうして、母は、夜の蝶ならぬ、夜の蛾へ変身したのだった。


出来上がった、店を見た親父は、「こんな店、壊したる。」と息巻いたようだが、


自分の甲斐性なしが原因であることに気づき、だまっていたそうだ。


それから、俺は、毎日、演歌を聞かされるはめになる。とは思いもよらなかった。


しかし、後のまつりだった。



そして、めでたく転校生になった俺は、住之江区の粉浜小学校へ転進した。


転校生と言うだけで、とりあえずクラスの注目をあつめた。


いろんな質問を受けて、返事をしていた。中に前の学校での


けんかの強さを聞かれたので、「3年では、1番か2番や、」


とかましていた。当時、転校したときのあだ名は、「万能君」


だった。多分、いやみが入っていたと、思うが、その当時は


別におかしく思わなかった。本当に喜連小学校では


けんかに負けたことがなかったからだ。


それから、何がきっかけだったか忘れたが、


ちょっと、燗にさわる事を言ったやつにむかって、


「お前、泣かすぞ」といってやった。すると、まわりにいたやつらも


たばになって、かかってきた。とりあえず、ボコボコにされて


逆に泣かされるという、悲しい結果に終わった。


そのときは、服もボロボロになって帰ったので


母にいじめられたと、話すと学校に相談してくれたが、


先生は、サリー君が悪いというようなことを言っていた。


たしかに、生意気だったかもしれんが、暴力はあかんやろ


と思ったし、先生の発言にショックをうけた。


んなアホな。。。


それから、イジメはエスカレートして毎日いじめられたが


必ず、反撃するので、イジメというよりけんかに近かった


と思う。


そのころから、先生ってロクなやつおらんと気づき始めた


ような気がする。



小学3年のとき、引越しの話が持ち上がる。両親が色々、家をみて回っていた。


当時の小学校では、引越しする子にみんなが、プレゼントする習慣があって


引越しする子の机の上には、どーんと、しゅーもないものが山積みになるっていうのが、


当時の慣わしだった。しょーもないものと言っても、当時、すっげーうらやましかった。


両親は、「引越ししたら、犬をこうたる。」といいどうしても犬が飼いたかった俺


は、なくなく承諾する。しかし、なんと引越ししても犬は飼ってもらえず、


学校引越しのプレゼントは、


俺のときから、本当に俺のときから、先生が「こういう習慣は、やめましょう、」


と。。。。おいおい俺のときからかよ。本当に信じられんかった。


しかし、犬がうちにくることだけを、夢みて引越ししたのであった。


(o ̄∇ ̄)o!!ガーン



小学校2年生になると、新人の若い女の先生が担任となった。このとき、


俺は学級崩壊を、目の当たりにした。昭和47年当時だが、


なんと、授業中に子供たちが、かってに私語を話し、先生の言う事をきかない。


そして1学期の途中には、席を立ちはじめ、教室を脱走する児童まで


で出はじめた。俺も調子に乗って、授業中に講堂の屋根裏や校舎の裏で遊んだり


していた。しかも、学校の備品を破壊したり、裏庭にあったバナナの木みたいなのを倒したり、


花壇をけり倒したり、ガラスを割ったり、男の先生に追いかけられても逃げたりして


無茶苦茶していた。一度、仲間が、空き教室で大便をしたりしていた。


信じられんかった。そんなこんなで、楽しくやっていたが、ずーとやると面白くなくなる。


何がきっかけだったか、忘れたが、急に自分自身に変な正義感が、ムクムク沸いてきて


行動が変わった。なぜか、先生を助けてあげようと思い、こそこそと出て行くやつらを


追いかけて、むりやり捕まえては、教室に戻そうと、戦っていた。小学2年ぐらいでは、


実際のけんかの強さより気合があるだけで強いらしい。みんな俺の言う事を聞きだし、


学級崩壊は終わった。俺は先生に貸しを作ったと思っていた。


ここから忘れられない思い出がまだある。


俺は、2学期になって学級委員の選挙に立候補した。他にも


2,3人立候補していたと思う。そのとき俺は、絶対学級委員になりたかったので


教室で練り歩きながら、一人、一人に「俺に入れてくれ、入れてくれたら10円やる」


と言いながら、選挙戦を戦った。開票の結果、俺は圧勝した。


しかし、誰かが「サリー君は、みんなに10円あげるといっていました。」と告げ口


をすると、先生は、有無を言わせず、俺を失格にした。当時、なぜいけないのか


理解できなかった俺は、猛然と抗議したが、再選挙も拒否され、明確に何が


いけなかったのか説明も先生はせず、次点の子に話をすすめた。


多分、悪ガキだった俺を学級委員にするのは、悪夢に近かったと思う。


今ならわかる。なぜ駄目か、しかし当時先生にはもっと説明責任があり、


いい社会勉強の材料にできたはずだ。まあ今考えると学級崩壊させた


先生にそこまで言うのは、酷だと思う。


ただ、その後しばらく、子供ながらに抜け殻ようになっていたような


気がする。実際の日本の社会でもそれに近いことは、自民党のえらいさん


もやっていそうだ。現実の社会の方が学校よりゆるゆるだな。