列車のドアのふちに少年と男性がいる。2人の間に言葉は存在しないが、やや左寄りの右回りのお揃いのつむじが親子であることを示しているようだ。バラナシからアーグラへの列車の中で先ほどまでの景色を思い出す。
バラナシのガンジス河周辺から車で30分ほどの町、サルナート。そこは釈尊が初めて5人の修行者に説法を説いた四大聖地の一つ。中国、チベット、タイ、日本など数々の国の仏教寺院が集まっている。中心には土色の大きなストゥーパ(仏塔)がそびえ立ち、町を見守っている。
バンから出てすぐに湧き上がる安堵。澄んだ緑色が視界を彩る。今まで当然のように鳴り響いていたクラクションの群れはなく、代わりに自転車のベルが心地よく鼓膜をゆらす。牛やハエもここでは息を潜めている。観光客が物珍しいこの町では被写体は私達だった。インドにもこんなに穏やかな場所があったのだと、私はほっと肩の荷を降ろした。
宿泊している寺院から出て外を歩く。子連れの女性は早朝からチベット寺院に訪れ、色鮮やかなモニュメントの前で頭を下げて我が子の健康を願う。自転車の後ろに乗る小さな少年は、タイ寺院の前を通り過ぎるその一瞬に手を合わせて祈りを捧げる。日本寺の庭は手入れが行き届き、草花ははつらつとし、深く息を吸い込むと、線香のゆらめく香りが鼻腔をくすぶる。えんじ色の畩を着ている僧は町中に溶け込み、影には神聖な空気が漂っているようだった。釈尊の説法が根付く聖地らしい聖地。
一方、同じバラナシにあるガンジス河一帯に一歩踏み入れると無数の音で溢れかえり、巧みな日本語で話しかけてくる商売人にすぐ取り囲まれてしまう。火葬場を上から見下ろす異教徒たちがいて、夜のプジャー※にはロウソクの灯火の数より多くのフラッシュの光が目立つ。同じバラナシとは思えない。ガンジス河も昔はそうではなかったはずだ。敬虔な信者が集うヒンドゥー教の聖地を、観光地化の波が変えてしまったのだろうか。聖地ゆえのヒンドゥー教徒たちの熱心さ、宗教のパワーを感じられると思っていた分、少し残念だ。また、観光地化のせいで信者たちの居場所が失われてしまったのかと思うと、一抹の寂しさが私を襲った。
ここ、サルナートは変わって欲しくない、素直に私は思う。
穏やかで心地のよいこの町
神聖な美しさをもつこの町
ここは仏教の聖地。
「諸行無常の響きあり」
世の中に変わらないものはない。
この町が私に諭しているように思える。
ふと顔をあげると先ほどの少年の頭を隣の男性が荒く撫でている。少年は照れくさそうに微笑んでいた。
つむじが変わらないものもあると証明してくれた。
※ヒンドゥー教の礼拝
文責:渉外局一年 岩山 裕美