リクシャーに乗って | 学生団体S.A.L. Official blog

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慶應義塾大学公認の国際協力団体S.A.L.の公式ブログです。

簡易タクシー・リクシャーに乗って、デリー中心部を巡る。

高級車を走らせる恰幅の良い男性。すれ違いざまに「ニホンジン?」と声をかけてくる青年。バイクの後部座席に腰かけて微笑んでくる女性。
道端に目を向ければ、日本では見られない光景が目に飛び込んでくる。肘から下のない腕で通行人にお金をねだる人。小さな赤ん坊を抱えて立ちすくむ幼い少女。ボロボロの布を身にまとって横たわる人。

笑みと憂い。発展と停滞。富裕と貧困。相反する現実が、私の眼前に広がっている。
インドは「混沌」の国である。



信号待ちをしている車内に、一人の少年がひょっこりと顔を覗かせた。薄汚れた服を着た、10歳ほどの男の子。目には生気がなく、頬はこけている。
彼は「10ルピー、10ルピー」と言いながら、ペンの束を差し出してきた。

これが所謂物売りである。物乞いとは違う。
彼が売ろうとしているペンは、日本では100円程度で買えるものだ。インドではミネラルウォーターが約20ルピーであるから、このペンを現地の物価で考えると、日本円にしてだいたい50円というところだろうか。

しかし、そこで「ずいぶん安い買い物だ」と財布を出すのは少し早い。問題は二つある。
一つは、その10ルピーが彼の将来に渡る職業を決定付けてしまうかもしれない、ということだ。観光客にすがって物を売るだけで、簡単にお金を手にすることができる。「味をしめた」彼らは、学校に行く機会も定職に就く道も、自らの手で棒にふってしまうかもしれない。

もう一つは、彼らの背後にブローカーがいる可能性だ。子供に手頃な商品を渡す代わりに、彼らの稼ぎの何割かを奪っていく存在である。このシステムは彼らの稼ぎを減らすというだけではなく、子供たちの間に物売りを職業化させる原因ともなろう。
余談だが、『スラムドッグ・ミリオネア』という映画をご存じだろうか。そこには悪徳業者が非情な手段で子供たちを翻弄し、観光客からお金をかき集める様子が描かれていた。――同情をひくために彼らの目をくりぬくのである。これは決して映画の中だけの話ではなく、子供たちの腕や足が犠牲にされている現実は、都市部で何件も報告されている。

それでも、私は彼に10ルピーを渡したいと思った。「10ルピー、10ルピー」と繰り返す声は悲哀に満ちている。
日本円にしてたった15円。たった15円を、目の前の小さな男の子に渡せない自分とは。

結局、私は彼のペンと10ルピーを交換しなかった。
彼の首元には、きれいなネックレスがかかっていたのだ。本当に貧困にあえぐ子供ならこのようネックレスは付けられないはずである。「職業化」と「ブローカー」という言葉が頭の中を駆け巡り、どうすれば良いのだろうかとためらった瞬間に、信号は青に変わった。
おそらく彼のすべてが、演技だったのだろう。



一口に物売りと言っても、その実情・背景は様々である。物乞いも同じだ。
「職業化」「ブローカー」は重要な問題であるが、それは所詮可能性の話に過ぎない。私が出会った少年のような子供もいれば、本当に苦しんでいる子供も山ほどいるだろう。

初めてインドに足を踏み入れる人間なら誰しも、物乞いや物売りにどう対応するかは考えざるをえない。彼らは道のあちらこちらにいて、裕福な観光客が来るのを待ち構えているのだから。
彼らを目の前にして私たちは、子供を助けたいという気持ちと、「職業化」「ブローカー」の可能性を、天秤にかけるのだ。その結果は個人の裁量によるし、また、そのシチュエーションにもよる。遠く離れた日本で考えた答えは、おそらくインドで打ち壊されてしまうだろう。
この問題に正解はない。ただ実際に彼らを目の前にしたとき、その時と場合による自分にとっての正解を、考えて選んでいくのみである。私はそう考える。




リクシャーから見える景色は、日本でメディアから伝わる事実とはずいぶんと様子が異なる。インドは、言葉では表し難い多様性を持っている。
冒頭に述べた「混沌」という言葉もそうだ。発展も停滞も、富裕も貧困も、その実情はとても一言では表現し切れない。
その国の真実を知りたいのなら、その国に行くしかないのである。

好奇心を満たすでも、国際問題について知るでも、解決策を見出すでも、そのすべてはその国を訪れることから始まる。
より深い知識と理解を得るためには、平和で快適な日本からそうではない異国へ、覚悟を決めて足を踏み入れなければならない。




【文責:PM局一年 鈴木しおり】