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慶應義塾大学公認の国際協力団体S.A.L.の公式ブログです。

こんにちは。
広報局一年の田中紳顕です。
湿気が多いですね。早く梅雨が明けることを切に願います。



さて先日、興味深い記事を見かけました。
その記事には、黒を基調とした表紙にエルビス・プレスリーの穏やかな死に顔の写真が掲載されていて、他の記事とは違う異彩さを放っていました。

題名は「死ぬほど見たい遺体写真の魔力」

人は死体の写真を恐怖と嫌悪を抱きつつも、ついつい見てしまいたくなる矛盾した気持ちを持っているという内容です。


私はなるほどその通りだと思いました。
現に、カンボジアのキリングフィールドや、ナチスドイツのアウシュヴィッツなどのグロテスクな写真には、見てて面白いものではないと分かりつつも、ついつい目を向けてしまいます。
グロテスクなものって、普通見たくないですよね?
でも私たちは視線を注いでしまいます。
どうしてでしょうか。

私は、人が「死」という忌語、キーワードに魅せられてしまうことがあるからだと思います。
実際、私は(私だけかもしれませんが)駅のホームで電車が通るとき、恐いことだと思いつつ、飛び込んでみたくなる衝動を持つことがあります。実際にはしませんけど。
皆さんにも同じような経験があるはずです。

他にもおおまかにいうと、死ということに対する何らかの感情を持つことですね。
死んでいる人々を見て憐憫の感情を抱いたり、時には泣きたくなるほど悲しくなったり。


私はこの記事を読んで、ふと我々SALが行っている活動を思いました。私たちは「飢餓」「病気」「地雷」などという、“死”へとのびる直線的なベクトルを少しでも弱めようと、Send、Aid、Learnという方法を用い、活動しています。
「苦しんでいる」から「助ける」みたいな。

それはとても素晴らしいことだと思います。
幸せ創りの手伝いができるからです。


しかし、私たち人間は死に特別な感情を持ち、死を重視してしまいます。
そのことが時に私たちの活動を単純化させてしまうかもしれません。
~でたくさん人が死んだ。
じゃあ、助けよう!みたいな感じで。

そのような単純化されたプロセスの助けは、現在進行形で苦しんでいる人々への助けというより、むしろ既に死んでしまった人々への憐憫に過ぎなくなってしまうのではないでしょうか。

死んでしまった人を助けることはできません。
幸せ創りの手伝いはできません。

助ける対象を見誤ってはいけないと思います。


これは死に関係する話だけではありません。
私達が誰かを助ける上で、本能の赴くままの中途半端な動機、不明瞭な対象を持ったままでいると、活動自体が中途半端なものとなってしまいます。


それを防ぐために、私たちには慎重に考察を重ねる必要があります。
誰を何のためにどうして助けるのかという考察をです。



手間はかかります。
だけどそんなひと手間が、よりたくさんの幸せをもたらす為の隠し味になるはずです。きっと。


【文責:ニコライ】