“ぼく”にはお父さんがいない。
家にはお金もあまりない。
お母さんも元気がない。
けれど、ゴージャスで明るいお金持ちの”京子さん”が来た時だけ、家の中が明るくなる。
お母さん励まし、家を出て行った男の悪口を言い、ぼくに英語を教えてくれ、ハーゲンダッツを買ってきてくれる京子さん。
けれど、ある日ぼくが訪れた京子さんの家は、まるでがらくた小屋。
玄関にはぼろぼろの運動靴がいくつも散らばっていた。
そんな現実を隠してお金持ちを装い、今日も京子さんはぼくの家に光を灯しに来てくれる。
*
The end justifies the means.
嘘も方便
―みなさんは、このことわざに反対ですか、賛成ですか?
*
私は基本的に嘘が嫌いです。
私のためを思うなら、本当のことを話してほしい。
でも、たとえばその嘘によって私の生活が成り立っているとしたら。
真実を隠されているからこそ、しっかり生きていけるのだとしたら。
初めに書いた話は、メディアファクトリーの「嘘つき。」という短編集に入っている小説『やさしい嘘』の概要です。
“ぼく”とお母さんを元気づけるために、裕福なふりをして、「世界は輝いているんだ」と教えてくれようとする京子さん。
そんな京子さんのやさしい嘘が、他に頼るすべのない2人の、唯一の生きる支えになっているのです。
嘘は嫌い、と常々公言している私ですが、改めて考えてみると、世界はやさしい嘘であふれているように思います。
余命が近い子供に、「すぐ退院できるからね」と諭すお母さん。
いじめられても、親に心配をかけないように一人で耐える子供たち。
個人的にどんなに辛いことがあっても、生徒たちへの笑顔を絶やさない先生。
「必ず帰ってくる」と家族に約束して戦地へと赴く兵士たち。
「やさしい嘘」をつくことが、常に正しい選択であるとは思いません。
たとえそれがやさしさからでたものであったとしても、嘘には変わりないからです。
それが嘘だとわかったとき、
どうして嘘なんかついたんだ!と怒るのか
嘘をついていてくれてありがとう、と喜ぶのか
それはそのときになってみなければわかりません。
けれど一つだけ確かなことは、その嘘をついた相手のやさしさは、本物だということです。
嘘をつくというのは、エネルギーのいることです。責任を伴うものです。
やさしい嘘をつくということは、なんらかの悲しみや苦しみを、相手には知られないよう、自分の心で握りつぶすということです。
相手への愛がなければ、なせない業だと思います。
みなさんのまわりにも、もしかしたら、やさしい嘘をついてくれている人がいるかもしれません。
知らないどこかで、一人きりで痛みをこらえていてくれているかもしれません。
わたしたちはどれくらいの確率で、その嘘に気付くのでしょうか。
もしその嘘に気付いたら、そっとやさしさに感謝したいものです。
でも、気付かないことの方が多いかもしれません。
それはそれで、いいように思います。
だれかのやさしい嘘に、守られているのかもしれない。
嘘に限らず、見えないやさしさが、包んでくれているのかもしれない。
そう思うだけで、すこし気が楽になるような気がします。
思っている以上に、人は、世界は、やさしいのかもしれません。
【文責:広報局 石塚萌子】