2010年の日本と中国の名目国内総生産(GDP)が逆転し、日本は42年間続いた世界第2の経済大国の看板を下ろした、というちょっと前に話題になったニュース。
たまたま見ていたテレビ番組でもこのニュースが取り上げられていたのですが、そこで紹介されていたのは日本でも中国でもない国、ブータンでした。
なぜなら小さな国ブータンは、貧しいけれど幸せな国だから。
「国民総幸福度(GNH)」を提唱したことでブータンは、GDP/GNP増加を主眼としている先進国から今、注目されています。
国民総幸福度(GNH)とは、物質的な豊かさだけではなく、精神的な豊かさも尺度に入れた「幸福度」を表す考え方です。
ブータンはGDPでみれば最貧国である一方で、このGNHでみると9割以上の国民がしあわせだというのです。
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このことから考えたことがあります。
それはしあわせってなんだろう、ということ。
もちろんその答えは、主体がだれなのか、またなにをもって「しあわせ」とするかで大きく変わってきます。
ではわたしのしあわせってなんだろう、と考えてみるとその大体はちいさなことの積み重ねだったりします。
寒い日に飲んだあったかい飲み物でほっとしたとき。
ともだちの優しさに触れたとき。
なにか目標が達成したとき。
でもその反面、しあわせは<比較>の中で感じるものなのかなとも思います。
現在と過去、自分と他人。
そういった様々な比較の中で自分のしあわせを確かめ、感じていることは否定できないことです。
その中でも、人と比較ではなく自分自身の比較で未来の自分がしあわせだと思えるために今できることは、結果はどうであれいつでも自分が満足できるような努力をすることのように思えます。
これだけやったんだ、と胸をはっていえるようになれば、それまでの苦しい時間もいまもそして次に訪れる時間も「しあわせ」だと言えるのではないでしょうか。
とは言ったものの、これはすごく難しいこと。
自分を認められるようになるまでいっぱい失敗もするし、かっこわるい自分は見たくないから最初から諦めてしまうこともしばしばあるはずです。
それでも「自分を認める」ことはしあわせにつながるし、そのためには自分が満足できるような努力が必要なのだと思います。
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そもそも幸福感は感覚の問題であるから数字で示すには限度があるという意見もあります。
それでもブータンの多くの人たちが「しあわせ」と感じるのは、生活が決して豊かじゃなくても今の自分たちに満足しているから。
そんなブータンの人たちとは違って比較や競争の中で生きるわたしたちが、物質的満足感のみではなく「しあわせ」と感じるには自分を認めること、そしてそのための努力が必要な気がします。
ちなみにブータンってこんなところ。
わたしもいつか足を運んでみたいです。
【文責:広報局長 久保七生】