みなさんにもシェアしたいと思います。
この記事です。少し長いのですが、示唆に富むものとなっています。
記事についてざっくりと説明すると、複数の本を引きながら「孤独」の問題についてそれがもたらす絶望やそれらの問題の解決方法になりそうなことについてまとめています。
私は、ざっくり前半と後半に分かれていると思いました。
記事本文に目次がないので、ここに項目を書き起こします。
- 進化心理学的な知見から見た孤独の悪影響
- 鬱の社会学的要因としての孤独
- 他者は基本、自分を「わかってくれない」
- 人間関係とは、他者が自分に対してもつ、そして自分が他者にもつバイアスのなかで、アイデンティティを管理していくことである
- ゆるいつながり
前半1~4は、「孤独」とは何かというような原理的なことを扱っています。
どうして人は孤独になり、どのように孤独に苦しむことになるのか?
孤独の克服方法はあるのか?
そして、個人の立場で見る、人間関係やアイデンティティについて考察しています。
いずれの項目も読み応えありますが、今回は1~4の中から「2.鬱の社会学的要因としての孤独」を紹介します。
後半にあたる5は、「孤独に絶望してしまうことのない人間関係」についての考察となっていると思いました。
読みごたえのある長文で、集中力が弱い私は途中で眠たくなってしまったのだけれど、頑張って最後まで読みました。
読み終わった時に思ったのは、「孤独」に取りつかれて病気のようになってしまった人間を救う手段が、「ゆるい人間関係」であるということの難しさでした。
というのも・・・・・・無駄なこととは知りつつ・・・・・・
ついつい出来の悪い弟のことを思い出しながら読んでしまったもので。
私の弟の話はこちらから読めます。
「抑うつ的な認知パターン」と「孤独」と私の弟
「2.鬱の社会学的要因としての孤独」の一部を引用しようと思います。
「抑うつ的な人間関係」をもたらしているのは、抑うつ的な認知パターンである。簡単に言えば、抑うつ的な人は、「自らを滅入らせるようなものの見方をしている」ということだ。
そして、抑うつ的な人は、自らが抑うつ的な認知パターンにはまっていることに気づくことができない。
なぜなら、抑うつ的な人は、自らのものの見方を絶対視する傾向にあるからだ。
ものの見方は、人それぞれだ。しかし、抑うつ的な認知パターンにはまると、そのような自己相対化ができなくなる。
簡単にいえば、抑うつ的な人は「自分の内面しか見えていない」。
「一般的に人が、とりわけ抑うつ的な人が、人生経験を解釈したり、それに反応したりする際に自分自身の参照枠を用いる傾向のことを、「内面指向性」と呼んでいる。
この用語は、感情や信念、判断のような内面の経験を、反応や行動の唯一の、または主なよりどころとして用いることを指す。
他人を理解するのに、自分自身の「参照枠」を使うことはできない。
しかし、自分自身の「参照枠」を絶対視している、それにいわば「埋没」してしまっていると、他人の言動も自分自身の「参照枠」を通してみてしまうことになる。ここに、抑うつを導く悪循環が始まる。
抑うつ的な認知パターンについて、より詳しくその特徴を見てみよう。
例えば抑うつ的な人は、他人に対して非現実的な期待を抱きがちだ。非現実的な期待は、多くの場合、他人が自分とは違うものの見方をしていることがわからないことから生じる。
抑うつ的な人は、自分がどのように感じているかを他人が知っているだけでなく、他人も自分と同じように感じている期待しているせいで、他人が自分が期待したのとは違った反応をしたことで、自分を何の気なしに傷つけたときに、落胆するにとどまらず、裏切られたと思うまでにいたる。
抑うつ的な人は「反芻的な思考」に耽る傾向がある。
<中略>
抑うつ的な人は、自らを孤立状態へと追いやっていく傾向がある。
そして、自らが孤立していることを、「知的」で、場合によっては「高貴」であると感じる独善性に陥り、自らの孤立を正当化する。
自分は「特別」だから、特別な配慮を受ける権利があると思い込み、そのことが良好な人間関係の妨げになり、怒りや拒絶、最終的には見捨てられ感や孤独感を伴った抑うつを招いてしまうことになる。
<中略>
さて、抑うつ的な認知パターンがどのように歪んでるのか、その特徴をいくつか見てきた。
このすべての特徴に通底するのが、「自分のことしか見えていない」という一点に集約される。
自分の「参照枠」だけを絶対的に信じ込んで、他者の言動がきちんと見えていない。
これを読んで正直、めちゃくちゃ弟のことだ!
と思いました。
実際の鬱または「抑うつ状態」みたいなものは、要因としては遺伝や環境も考えられていて、ここではいくつかある要因の中の「社会学的要因」というものに焦点が当たっています。
なので実際には、我が弟がこうした「抑うつ的な認知パターン」にすっかり浸かっているのは、社会学的な要因というよりはそのほかの要因も考えられると思いますが・・・・・・
ともあれ、抑うつ的な人が自らを孤独に追いやるその内面的な動きというものが、私が見てきた弟にとてもよく当てはまっていると思いました。
特に、この部分。
- 他者を正しく認知することができず、
- 他人に対する非現実的な期待が、裏切られる不快感を導出する。
詳しくは、弟についてのブログ記事を参照していただきたいのですが、
私の弟は、姉(=私)からの「自分が期待したのとは全く違う」リアクション、働きかけに出会ってちょっと傷ついただけで、即座に電話をかけてくるほどに怒り狂っていたわけですから、まさに「自分を何の気なしに傷つけたときに、落胆するにとどまらず、裏切られたと思うまでにいたる。」という様子を、私は実際に起きた出来事として目の前で見てきたのだと確信しています。
一連の出来事の結果、弟は私からの信頼を失って、私はもう二度と彼を助けることはありません。
こうした流れを見ると、抑うつ的な人が「抑うつ的な認知パターン」にはまり込んでいる自覚がないままに、「孤独状態」へと陥る様子はまさに私が見て経験してきたものとそっくりそのまま当てはまります。
私はこの文章を読んで、弟が自らの孤立を正当化するだろうこともよくわかりました。
弟がこの後どうなるか、私は知らないですけれども、
この第2項の後半には、引用した部分の文章に引き続いて、
「この抑うつ的な認知パターンを打破するためにはどうすればいいか。」
という具体的な方策が示されていますので、
もし、抑うつ的な認知パターンに陥っている人がいたら、
読んで書いてあることを試してほしいと思います。
参考図書は、マイケル・D・ヤプコ『鬱は伝染(うつ)る。』(福井義一監訳 定政由里子訳 北王子書房)のようです。
「2.鬱の社会学的要因としての孤独」を読んで私が言いたいことは、
「抑うつ的な認知パターン」にはまり込んだ人との関わりの中で、迷惑がられたり悲しい思いをしたりしている人へ、
――たぶんそれは貴方が悪いんじゃないですよ!
ということだけは言いたいと思います。
絶望的な孤独から遠い世界としての「ゆるい」コミュニティ
「5.ゆるいつながり」では、「自殺希少地域」と呼ばれる自殺者が有意に少ない地域のコミュニティについての考察がまとめられていました。
そうしたコミュニティには、どのような特徴があるのか?ということの検討を通して、「ゆるい」コミュニティの実態というものに迫るわけですね。
この項目では、個人の特質や認知としての孤独という話ではなくて、
「どのようなコミュニティの中で人は孤独を感じづらいのか?」
という人間関係そのものに焦点を当てています。
では、「5.ゆるいつながり」から一部抜粋しましょう。
コミュニティが緊密だと、そこでは価値観のすり合わせが発生して、そうしたすり合わせが苦手で、その緊密さに入ることができない人が孤立してしまう。
自殺希少地域には、そうした緊密さがあまりないのだという。
例えば、自殺希少地域のひとつ、旧海部町では、ひとのうちでも「ちょっとごめんよ」と言うくらいで勝手に入ってもいいのだという。玄関の鍵は開いていて、顔見知りくらいの関係でもトイレを借りに、気軽にひとのうちに入っていく。
必然的に、ひとは、たくさんの人と出会うことになる。そうしてたくさんの人と出会い、たくさんの人と話すことで、軽いコミュニケーションに慣れていく。この軽い知り合いの数が多いことで、自ずと、ひとが多様であることを腑に落としていくのだという。
<中略>
自殺希少地域の特徴は、みな、「自分の考えをもっている」という点にある。自分に考えがあるから、ひとは自分の考えをもつと知っている。違う意見を話せる。だからある人間の側やグループにつくのではなく、どの意見かによって誰と一緒になるかが決まる。ゆえに派閥、仲間意識がない。
緊密ではない、ゆるい人間関係が多く結ばれている。これが、自殺希少地域の肝であるようだ。
だが、緊密でもないのに、どうして人間関係が結べるのだろうか。それは「ひとを助けるのにおいて相手の気持ちをあまり気にせずに助けようとする態度」が共有されているからだという。
つまり、「人助け慣れ」している。相手が何かに困っていて自分が助けてあげられることがあったならば一気に助けてくれる。「慣れて」いるから、助け方も上手だ。日常の小さな困りごとが、誰かの身に蓄積しないような状態が、つねに実現されている。
「5.ゆるいつながり」の部分は、ここだけ読んでも十分に価値があるほど含蓄と示唆に富む内容となっていると思います。
この部分をギュッと要約してみると以下の2つにまとまります。
- 自分には自分の、他者には他者の考えがあることを前提として、外的な属性に依存せずに個人が直接的に評価されることで、派閥やグループが作られることなく「ゆるく」つながりを形成する。
- 困りごとがあれば「相手の気持ちを考えずに自分の気持ち一つ」で行動する。
ここで思い出すのは、実は高校の頃のクラスがこんな感じだったなぁってこと。
私のクラスはけっこう特殊なクラスで、理系と文系の間に「総合」みたいな名前で置かれた1つしかないクラスでした。
文系クラスは4クラス、理系クラスは2クラスあって、その間に1クラス私の学級が入っていました。
全体的に学級としての盛り上がりや凝集力に欠けたところのある、
でも基本的には心優しいタイプの人間の集まりで、
頼まれ事があれば進んで協力までとはいかなくても断らない人が多かったです。
先生方からは、「なんとなくボヤっとして個性がはっきりしないクラス」に見えたと思います。
明確にリーダーに相当する人がいなくて、いわゆる陽キャ・陰キャみたいなキャラもいましたが、どちらもあまり自己主張が強くなく他者への干渉もほとんどしなくて、万事が控えめという感じでした。
理系でも文系でもない中途半端な感じが、中途半端な人を引き寄せたのでしょうか。
謎です。
一言でいえば、「ゆるい」状態だったのかもしれない。
当時は今ほど「ゆるい」という言葉が一般的ではなかったので、気がつきませんでしたが。
居心地は特別良くも無いが悪くもないって感じ。まさに「ゆるい」です。
今にして思えば、寛容で問題解決志向の人が多かったのかな、と思います。
卒業アルバムに入れるクラスの標語がなかなか出ずに、
「みんなでペンギンになろう」というのが最終的に決まりました。
謎です。
真面目に検討していたのになぜかこれになりました。
誰もツッコミを入れなかったし、詳しく意味を聞く人はありませんでした。
どう見ても「ゆるい」学級ですね・・・。
こんな感じが、おそらく孤独に苦しまなくてもいい環境だったんだと思った次第。
引用部分にあるような「必然的に、ひとは、たくさんの人と出会うことになる。」という環境は、学校における学級集団にけっこう当てはまっていると思います。
ここからわかることは、子どもたちがグループになって仲間意識を構築することで排他的になったり、異質な他者に対して攻撃性を持つことを回避するためには、「仲良くしましょう」というよりも次の2つのことを教えるほうがいいということです。
- 自分の考えと相手の考えの両方を大切にする
- 困っている人や助けが必要な人がいたら悩まずにできるだけすぐに助けるようにする
陰口や喧嘩が普通に見られるような凝集力のない「ゆるい」コミュニティでも、お節介と思われようがなんだろうが、助け合いを前提とする姿勢を保持していれば、孤独を感じたり孤立する危険が少ないということなんだと思います。
なので、「仲良くする」ことよりも「困っている誰かを助ける」ことのほうが大事になってくると思います。
学級経営をされている学校の先生方、ぜひ「ゆるい」学級経営を目指してみるのはどうでしょうか?
子どもの場合は「誰かを助ける」といった場合に、経験の浅さから上手な解決策が出せなかったり感情を上手に処理できなくてこじれたりすることがあるので、大人の手助けが必要かもしれませんが、「人助け」を手がかりに、問題があったときに「自分たちでどうにか解決できないか?」と考える問題解決志向を育てるのはとても面白いアプローチだと思います。
孤独・孤立に陥りがちな「抑うつ的認知パターン」の人間を「ゆるい」コミュニティは治せるのか?
以上、第2項と第5項と重要な部分を見てきましたが、こうして眺めてみると私が読み終わったときに感じた、
「孤独」に取りつかれて病気のようになってしまった人間を救う手段が、「ゆるい人間関係」であるということの難しさ
は、ある種の誤読でしたね。
そんなことは別に書いてなかった。
私が自分の弟のことに強く意識を引っ張られて、そう思っただけのことでした。
実際、私はかなり弟に「ゆるく」関ってきたつもりでしたが、結局、弟は「姉には姉の考えがある」という認知にいたらなかったし、それどころか、私が「助けようと思って行動したこと」が迷惑がられ、まともに受け止めてももらえず、こちらの気を遣った「言い回し」や「言葉遣い」を捉えて「一方的に裏切られたと思って激怒・拒否され」てしまったのですから、そういうことも考えてしまいます。
意識して「ゆるく」関わっていたつもりでしたが、弟の「抑うつ的な認知パターン」すなわち「自らを滅入らせるようなものの見方」はなんともならなかったですね。
まぁ、私は一人しかいないのでコミュニティというものとは全く持つ性質が異なっているのは仕方がないとはいえ。
私が姉という立場で関わるから、そうなのだろうか?という疑問はありつつも、
「抑うつ的な認知パターン」を改善することは事実としてできなかったです。
そして、考えるのは、自殺希少地域のような「ゆるい」人間関係を構築したコミュニティに、すでに「抑うつ的な認知パターン」の人間はコミットすることができるのか?
ということ。
孤独に取りつかれたようになった人が、「ゆるい」人間関係が形成されているコミュニティに入っていくことができるか?
そしてそうしたコミュニティに入れば治るのか?
noteでは取り上げられていない話ですが、私は私の経験を通して、
そうしたことが非常に難しいのではないかと思っています。
「ゆるい」コミュニティも、予防的な意味で孤独を遠ざけることはできても、すでに自ら孤立・孤独を招くような認知パターンに陥っている人を助けるすべにはならないのかもしれない。
孤独の中で、「抑うつ的な認知パターン」という、さらに孤独を加速させる状態に陥った人が、「ゆるい」コミュニティという「場」に出会い、その中で寛解していくことはおそらく簡単なことではないのではないかと思いました。
では、どうしたらいいんでしょうね?
私はどうしたらよかったんでしょうか?
ブログ記事の前半で書いたように、鬱・抑うつは社会学的要因以外にも要因が考えられています。
これは、必ずしも社会学的要因、つまり人間関係の在り方に原因があるわけではないということです。
note記事に書いてあったような方法を、地道に自分で試してもらうしかないのかもしれませんね。
必要に応じてカウンセラーや精神科医など専門家の助けも借りつつ自己解決してもらうしかない。
一応、当該箇所を引用しましょう。
この抑うつ的な認知パターンを打破するためにはどうすればいいか。
この問いは、自分の「参照枠」を相対化して、自分とは違う「参照枠」をもって世界を経験している他者のことを想像するにはどうすればいいでしょうか、と言い換えることができる。
自分とは違う他者の存在をリアルに想像する。そのためには、
①自分の信念や感情の外に脱け出すこと、
②他者を信じる/信じないとか、愛する/憎む、味方/敵という二分法ではなく、他者についての適切な情報をもとに、「個別査定する」という態度の両面が必要になる。
①自分の信念や感情の外に脱け出す。自分の信念や感情の外に脱け出すために、著者は「行動療法」の有効性を説く。
ごくシンプルに、例えば身体の運動は、抗うつ剤よりもより効果が高いという実験結果もある。
「行動療法」の要諦とは何か。
それは自分の思考や感情、信念ではなく、自分の身体に、自分の軸足を移すということである。
抑うつ的な認知パターンは、思考や感情のスパイラルと信念の強化の閉回路だ。思考や感情や信念によっては、その外に出ることはできない。
②他者を「個別査定」する。
よく、孤立して引きこもっている人に対して、無条件に他者への信頼を説く教説があるが、他者は信頼できる人間ばかりではない。心を開いた瞬間、そのことを自分の我欲に利用しようとする人間もたくさんいる。重要なのは、他者を「個別査定」することなのである。
で、できそう?
わからないけど、究極的には「運動をするとよい」みたいなことが書いてありますね。
いろいろ気にかけていた姉を敵に回すような認知構造の人間(弟)に、個人を適切に査定する力なんか期待できないから、②は難しそう。
とすると、①の「自分の身体に軸足を移す」というやつが残る。
すなわち、「身体を動かせ」=「運動をしろ」というわけ。
それは、そうなのかもしれない。
意外と世の中、回答というのはシンプルなのかもしれない。
もっとも、弟のことは「もはや、どうでもいい!」ので、これは私自身の話として考えているわけではありません。
今さら弟に「これ読んでみて!」という話でもないと考えています。
ただ、ブログを読んでくださった皆様の中に、「抑うつ的な認知パターン」でお困りの方がいらっしゃいましたら、ぜひ参考になさってください。
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それでは今日はここまで。
読んでくださってありがとうございます♪
素敵な1日になりますように!!
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【追記】
誰かが引用している本の一節をさらに引用することを「孫引き」と呼びます。
今回は本の引用部分を含めた引用なので、純粋な「孫引き」というわけではないですが、「孫引き」というのは礼儀作法にかなっていないマナーが悪いことでもあるので、note記事の図書のリストを付けることで今回は許してもらうことにします。
●当該note記事に紹介されていた本のリスト
- 孤独の本質 つながりの力
ヴィヴェック・H・マーシー 著/樋口武史 訳/英治出版/2023年
- 鬱は伝染(うつ)る。
マイケル・D・ヤプコ 著/福井義一 監訳/定政由里子 訳/北大路書房/2008年
- だれもわかってくれない
ハイディ・グラント・ハルヴァーソン 著/高橋由紀子 訳/早川書房/2015年
- 孤独と居場所の社会学
阿比留久美 著/大和書房/2022年
- その島のひとたちは、ひとの話をきかない
森川すいめい 著/青土社/2015年
- 生き心地の良い町
岡檀 著/講談社/2013年