
二本の柚子の木
リビングの窓から見える場所に、いかにも老木という風情の柚子の木があった。
とてもよい香りの実をつけて、わたしは好んでその実を捥いでは使っていた。
その老木から十メートルほど離れた、キッチンの窓から見上げる位置に、もう一本柚子の木があって、こちらはもっと幼く、若い木に思えた。
この二本の柚子の木を、いつ誰が植えたのか。実生なのか、接ぎ木されたものなのかも、今となってはわからない。
わたしがここに住み始めた当初は、老木のほうが実つきもよく香り高く、若木の実は数も少なく、香りも弱いように感じられた。この二本の柚子は、種類が違うのかもしれないとも思っていた。
それが、五年くらい前かな。若木の柚子の風味も大きさも変わってきたなと感じ始め、数年前には老木で生っていた成熟した香りに近づいているように思えた。
ちょうど同じ頃、老木の元気がなくなってきているのが見て取れるほどになり、いろいろと手を尽くしたものの間に合わず、やがて枯れてしまった。
(美味しい実を分けてくれた木に、お神酒をささげてありがとうを告げ、お別れをした。)
今年の若木はもう、香りも大きさも数も、老木のそれとほぼ変わらないほどの――若い分、それ以上の養分と水分を蓄えて――実をつけるまでになっていた。
ただ若木が成熟したというだけのことかもしれない。
けれど、老木から若木へ、なにごとかが受け渡され、引き継がれたようで、二本の柚子の間に大切なことが起こっていたように感じられてならなかった。

そんなこともあって、樹木たちのことをもっと知りたいと手に取ったこの本。
森林管理官だったペーター・ヴォールレーベン著『樹木たちの知られざる生活』の中に、興味深い記述を見つけた。
長年、樹木を観察してきたヴォールレーベンによれば、人間と同じように木も痛みを感じ、記憶があり、親と子がいっしょに生活しているのだという。
さらに、樹々たちは互いにつながり、根の先を包む菌糸を伝って栄養を交換し合っているのだと。
そういえば、遠く離れたアマゾンのジャングルに自生する熱帯植物と、この家で育つ観葉植物がつながっていること。
広い海のこちら側と向こう側を泳ぐクジラたちが、交信しあっているという話も聞いたことがある。
だから、部屋の植物の葉を一枚胸に当てることと、ジャングルの熱帯植物に手を触れることは、等しく同じことなのだと。
(わたしは時々、部屋の観葉植物の葉を一枚採って、胸に当てて眠ることがある)
現代人はインターネットを通して、ようやく地球の反対側の人とも瞬時につながれるようになったけれど、古代はそんなふうに、言語じゃないなにかで交信しあっていたのかもしれない。

いまは切り株だけとなったあの柚子の老木はきっと、この若木と根っこでつながって、まだ養分を分けていることだろう。
今年最初の柚子仕事は、ポン酢と、種の焼酎浸けで化粧水の基材を仕込んだ。
絞ったあとの果皮は一晩水に浸けておいて、また明日の柚子仕事に。
いつも言っていることだけど、柚子には捨てるところがない。
老木から若木へ、引き継がれたいのちを余さずいただこう。

