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ふたたび、私のプロフィールに関する記事の続きです。

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順風満帆かのように思えた高校生活も、
最初の学年統一テストで598人中593位というどん底の結果になったことで、
一気に落ちこぼれとなったわけです。


確実に今いる私のクラスで最下位が自分自身。


脳筋だけしかなさそうなアホそうな顔のアイツよりも、
髪型や持ち物もチャラめのアイツよりも、
俺のほうが断然アホだったとは・・・。


俺ってそんなにアホだったのか・・・?


あ、ちなみに私の高校のレベルは「中の中の上くらい」なところですよ。


高校生活でいきなりマイナスからのスタートでした。


しかも、まさかの勉強で。


勉強は特別できるわけでもありませんでしたが、
かといって特別できないわけでもない生徒でした。



勉強でつまずくなんて、
完全にノーマークでした。



実は高校に入ったら硬式野球部に入部して、
甲子園を目指すぞという野心があったんですね。


でもまさかの落ちこぼれとなり、
これで野球部なんかに入って野球漬けにでもなったら、
確実に学年最下位争いの常連になることは容易に想像できました。


なので、ちょい勉強頑張ろうかと思い、
1学期はまじめに勉強しました。


で確か、598人中480位くらいまでいったかな?380位だったかな?


とりあえず底辺は脱したみたいだったので、
1学期終わって即、野球部に入部しました。


でもこの入部のスタートの遅さが、完全に致命傷でした。


まず1年生は球拾いやグラウンド整備とか掃除とか色々やらされますが、
私が入部した頃にはもう、1年生でも差が出ていたんです。


経験組と未経験組。


そして、経験組の中でも上手い組とそうでもない組に。


このヒエラルキーの中で、
野球未経験な私はまたもや最底辺に甘んじることとなりました。


同学年である1年生の中での最底辺というのは、
やっぱりまた辛酸をなめざるを得ない立場でした。


1年前に広島から大阪に引っ越してきたときと同じ、
アウェーで、かつ、最底辺な状態でした。


経験組の中でも上手い組の彼らとは、
とても友好的ですぐ打ち解けました。


ある程度高いレベルの人は、
人間力も比較的高いのが多いなと思いましたね。
(高いというか、普通ですか。)


が、
最も厄介だったのが経験組の中の大したことない輩たちでした。


要するに自分たちが経験者であることの優位性を保つために、
私のような未経験組の部員に雑用を指示するんですね。



同じ1年生なのに。



これ、結構屈辱でした。



たしかに経験者なだけあって、
未経験な私よりはそりゃ上手いですよ。


でも、経験者の割には下手くそな奴らに、


「お前は下手くそだから、ベンチでも温めとけ。ボール拾っとけ。」


と言われたらさすがに、
仏のような私でもカチンとくるわけです。


「俺は確かに中学の時陸上やってたから野球できないけど、
同じスポーツをやっている立場からしたら、
お前らなんて俺よりはるかに格下なレベルの成績だろ?


もっと人を見てから、モノ言えよ!下手くそなデブ!」


と心のなかで何度も言いました。



私には中学時代の陸上部での成績に、
人一倍プライドがあったわけです。


このプライドを持ったまま、
野球部に入部しました。


そして入部後もずっと、
そのプライドを大事にしていました。


そのプライドこそが、
自分の自尊心を保てる唯一の心の拠り所であったわけです。



だから常に「お前らとは違うんだよ!」って思っていました。


でもそれを口にしたところで、
野球がうまくなるわけでもない。


口にして証明させたところで、
決してホームランがパコパコ打てるわけでもないのです。


この葛藤がとても苦しかった。


練習はまずさせてもらえないし、参加すらさせてもらえない。


だって球拾いやら準備やら掃除やらしかさせてもらえなかったから。


それらの作業を、
最初から入部していた他の1年生の仲間達は3ヶ月間やったわけです。


だから途中から入部した私1人だけ、
「雑用」という役務から逃れるわけにもいかなかったわけです。



季節は夏から秋になり、
3年生も夏の大会が終わって居なくなりました。


やがて冬になり、
7月に入部してからもう半年間が来ていました。



そのころには私のポジションは自然と固まっていました。




「雑用係」というポジションに。




その頃、1年生はレギュラー組以外は持ち回りで雑用係をやることとなっていました。


しかし例の、
経験組なのに下手くそ組の奴らは決して雑用をやろうとはしませんでした。


「雑用はお前のポジションだから、しっかりやれよ!なんで俺がやらなあかんねん!」


って吐き捨てて。


ですので入部してから半年間、
全く野球というものをやらせてもらえなかったんです。


こんな状態だと練習すらさせてくれないから上手くなんてなれないし。


そもそも俺はこんなことさせられるためだけに野球部入ったんじゃない。



このままでは現状が全く変わらなかったので、
野球部のキャプテンに直訴してノックやシート打撃をさせてくれと頼みました。


あっさり願いは叶って、
さっそく次の日からノックや打撃練習でした。


実はこの日のために、
未経験組同士で部活が終わったあと、
お互いに練習していました。


素振りも100回毎日したりとか、
ゴロ補(ゴロを捕る練習のこと)をずっとやったりとか、
結構やってました。


しかも目の前には下手くそ組がいたので、
目にモノを言わせる絶好のチャンスだったわけです。



が、現実はそう甘い展開にはなりませんでした。



バットにはボールが当たらず、
ノックでも手足がバラバラで浮ついてしまって落とすは、
投げたボールはめちゃくちゃなところに行くは・・・。


それ見ろとばかりに、下手くそ組からはヤジと嘲笑のオンパレードでした。


顧問からも



「もういい、こっち来い・・・」



とボールボーイ(雑用)のポジションへとただ1人引き戻されてしまいました。



半年間で初めてノックを受けられたのにもかかわらず、
このザマに屈辱や悔しさで一杯でした。




もう下手くそ組の声すら耳に入ってきませんでした。



それからは私がノックに呼ばれることがありませんでした。



辞めたい!・・・でも、ここで辞めたら、
何のための半年間だったのか?


そして今度は逃げるのか?


転校の時は、
自分の人生は自分で切り開くと誓ったんじゃないのか?



あっさり逃げれるのか?



その後学校は冬休みになりました。



ここで猛特訓を自分に課しました。



毎日、ラン20キロ。

素振り300。

片腕ティー300。



雪が降った日も毎日学校まで走って行き、
1人だけのグラウンドで手から血を流しながらやり続けました。



冬休み終わり頃には、
素振りもかなり楽になって気がし、
コツみたいなものも掴んだような気がしていました。


更にゴロ補を毎日壁に当てて行い、
常に補給するフォームを意識してひたすら延々繰り返す練習もこなしていました。



そして冬休みが明け
最初の部活。




みんな冬休みはどこに行ったとか、テレビは何を見たとか、
そんな話ばっかりでした。



まさかこの俺がそんな練習していたなんて、
誰も思ってもいなかったと思います。



でもやっぱり私のポジションは相変わらず雑用係でした。



そんなとき、主将から声をかけられました。



「お前も打席に立ってみろ。打っていいぞ。」



シート打撃という、実践形式の打撃練習のバッターボックスへ立つことを許されました。



しかもピッチャーは、下手くそ組の口の悪いヤツでした。



というよりも、ソイツが私の打撃練習のピッチャーとして志願したわけです。



「お前には打たれへんし、まだ百年早いわ」



ってソイツが近くにすれ違った時に言われました。



で、たしか2球目。



何の感触も感じることなく、
インローの力のないソイツのストレートをレフトへスタンドへライナーで持って行きました。



「何これ?こんなに簡単に当たるの?飛ぶの?」



これを見てくれていた主将も


「今の完璧やったなー!てか、お前結構パワーあるな。」


と声をかけてたのを、本当に未だに鮮明に覚えています。


そこからはもう、ソイツの球を打つのは何ら訳のないことでした。



完勝でした。



今度は守備にも付いていいと言われ、
空いていたセカンドを守りました。



そのとき私に打たれた下手くそ組のヤツがみんなに、


「セカンド狙って!セカンド、ザルやから打って打って!先輩、打ってやってください!」



途端に私の守るセカンド方面に打球が来ました。


何ら問題なく、無難にさばきました。




「ウメェ~~~~~!!!なにあのセカンド!!!!誰?○○(1年生レギュラー)か?・・・・違う!!!



あ~~~~~~マジで~~~~、認めてしまったぁ~~~~!


てか、アイツいつの間にあんなにうまくなったんや!?」




「ば~~~~~~~~~か!」



心で思いっきりフルボリュームで叫びました。


でも、まぐれかもしれないとかまだ言っていました。


その後もことごとく捕球し続け、
さらにゴロ補をやりこんだことで身についた基礎フォームもあって、
セカンドのレギュラーである先輩からも褒められました。


なんでそんなに上手くなったのかと、
そのレギュラーの先輩から聞かれたので、
冬休みの練習のことを語りました。



そこからまた、ノックにも参加させてもらえるようになったわけです。


その後私の打撃は好調さを増し、
実践形式の紅白戦でついに先輩のエースピッチャーと対戦することとなりました。


カウント2-3(昔のままです)で、
6球目の高めのストレートをフルスイングしました。




打球はセンター前に落ちるヒットでした。




初めて試合に出ての記念すべき初ヒットでした。




もうその頃には、
私を揶揄するような奴らはどこにも居なくなりました。



自分の力で何とか道を切り開いてやった充実感で一杯でした。




やればできる。



やったらできる。



シンプルですが、これって本当に大切なことだと今でも感じます。


今は若干、このアンテナが鈍っていますね。


アンテナというより、ハングリー精神なのか。



そして時は経ち、
私も2年生になり、
後輩の1年生達がワンサカ入ってきました。



「こいつら1年生には負けられへん!見せつけるぞ!」



と、何気なくキャッチボールをしたときに事件は起こりました。



やってしまいました。



肩の筋肉や筋が千切れそうなくらいの激痛が走ったのです・・・・。
しばらくぶりのブログ更新ですが、
これからはちょっと真面目に書き綴っていこうかと思います。

で、ブログではしばらくは私のプロフィール的なものを書いていこうかと思います。


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「あと1ヶ月くらいで、お父さんの仕事の都合で大阪に引っ越すことになったから・・」

部活から帰宅した私に母が突然言ったことが、それでした。

それは中3の1学期が終わる1週間前のことでした。

母が何を言っているのか、
最初は全くわかりませんでした。

というより、現実を直視できなかったのだと思います。


当時私は陸上部で部長をやり、
400Mと800Mの選手でした。

自分で言うのもあれですけども、
結構上位の選手で、まぁまぁ有名な選手でもありました。

学校の成績も上位のほうでしたし、
友達も多かったですし、
本当に地球は自分を中心に回っているんじゃないかくらいに思っていました。

私が所属していた陸上部は野球部・サッカー部に比べるとごく少数の集団8名でしたが、
我が陸上部が実績も成績ももっとも優秀な部でした。

メンバーもみんな小学校からの友人でしたので、
毎日が遊んでいるような本当に楽しい部活生活でした。

太陽が朝になったら登るのと同じくらい、
ここでの生活も充実感も当たり前のものでした。

その陸上競技生活を締めくくる最大で最後の大会でもある、
全国大会出場予選にピークをあわせるべく、
毎日毎日楽しく練習していました。

タイムも目に見えるくらいにどんどん短縮していって、
心肺機能も向上しているのも強く実感していましたし、
かなりの手応えを感じていました。

その最後の大会の日程は、
25年経った今でもまだはっきりと覚えています。



9月3日の土曜日。



1か月後の引っ越しを母から告げられたとき、
無力感で一杯になりました。

9月3日は、
夏休み終了後の2学期開始後の最初の土日だったから。

「嘘でしょ?嘘だろ?お父さんから何にも聞いてないよ!なんで勝手に決めるん!!?

陸上部の最後の大会、夏休み明けの3日後にあるんよっ!

たった3日後くらい、引っ越し伸ばせないん??!!

てか、なんで俺が!!?」

このような言葉を母に浴びせまくったのを覚えています。

いや、もっとひどい言葉も言っていたかもしれません。

14歳の私がどうあがいても、
その現実を覆すことは決してできませんでした。

ただこのとき、でもひょっとして・・父がわかってくれて、
中学卒業まで引っ越し伸ばすよとか言ってくれることを最後に期待しました。

でも父は、そんな私から避けるように、
何も口を聞いてくれませんでした。

何一つ・・・無言でした。

完全に大人の前に無力でした。

でもまだ現実を受け入れていませんでした。

きっと何かの間違いだし、
そんなわけないと。

その後学校でも1日だけ夏休み登校というものがありました。

その登校で担任から教室の黒板の前に呼び出され、
私が8月に大阪に引っ越す旨をみんなの前で告げられました。

「何か一言ないか?」

と担任に言われると、
涙が急に溢れだし止まらなくなりました。

何も言えませんでした。

「やっぱ、俺って本当に引っ越しするんだ・・・」

この瞬間、今のコミュニティーからの死刑宣告を受けました。


そして、私という存在は、その瞬間死にました。

「ああ、死ぬってこういう感じなんだ」と。

前に立たされている僕を見るみんなの視線が、
とても遠く感じました。


自分の人生の選択を自分で出来ないという事実を、
決して受け入れることができませんでした。


と同時に、

自分の人生は自分で切り開くもの。

自ら進んで強固な壁を作り、そしてぶつかり、
それを乗り越えていくこと。

この気持ちや経験は決して忘れないと、このときに強く誓いました。


そしてこの経験こそが、
今現在の私を形作った人生最初の転機でもありました。



大阪に着いて最初の夜は一睡もできなかったのを、
こちらも未だに覚えています。

そして5日後、大阪のマンモス中学校に転校しました。


完全なる、どアウェーでした。


その中学校は1学年8クラスありましたが、
広島からの転校生である私を見物するためにワンサカとやってきました。

その時の視線は、
それは当時の私では経験したことのない痛いものでした。

そして私が話しかけようとすると、
なぜかクスクスと笑われるわけです。

どうやら私の広島弁が、
関西の中学生たちには「ザ・田舎者」だったわけです。

そのうち不良グループも10人位の集団でやってきて、
関西弁でまくし立てるわけです。

苦痛を通り越して、屈辱でした。

しかもその中学校の制服は詰め襟でしたが、
私は以前の中学校の制服がブレザーだったため、
さらに浮いていたわけです。

昨日まであんなに楽しく、誰とも友達だった環境から、
自分を中心に地球が回っているんじゃないかと思っていたほどの環境から、
たった一日で完全に変わってしまいました。

この環境の変化というものは、
14歳の子供を精神からズタズタにするにはいともたやすいものでした。

さらに3日後の9月3日。

本当なら広島で晴れの舞台に立っているはずなのに、
大阪の私は全学年対抗の水泳大会に出場していました。

それも最後のメインイベントの、
クラス対抗50Mメドレーリレーのバタフライ泳者としてでした。

ちなみに私は、
クロールすらまともに泳げないくらいのカナヅチでした。

実は私のクラスのバタフライ泳者には、
以前から転校生に泳いでもらおうということになっていたそうです。

その転校生が私でした。

泳げないことを懸命に説明しましたが、
もう決まっていることなのでと変更も許されませんでした。

担任にも見捨てられました。

よく知らないクラスメートにも、広島弁で笑われてもいいので、
誰か変わってくれるように一人ひとりにお願いしつづけました。

でもダメ。

結局私はクロールで足を何度もつきながら、
50M死にそうになりながらたどり着きました。

その間、周りの嘲笑やブーイングや怒号が息継ぎで顔を上げるたびに聞こえ、
女の子たちにも指をさして笑われていました。

転校後3日目にして早くも、
私の居場所はどこにもありませんでした。

広島にいれば陸上で賞賛を浴びていた同日に、
これほど違う結果に自分の人生が転がりだしたこと。

自分が嫌で嫌で仕方なく、
このときほど両親を憎んだことはなかったと思います。

もう学校行くの止めようか・・・頭によぎりました。

でも月曜日、イヤイヤでしたが行きました。

クラスでは水泳大会の話題でもちきりで、
ますます一人ポツン状態でした。

大阪に来て、たった4日でこんな状態でした。

完全に未来はありませんでした。

その日、また体育が授業でありました。

もう憂鬱で仕方なかったです。

そのときの体育の授業は、たしか短距離などのランニングの練習だったと思います。

私が陸上部だったことは言っていましたのでクラスメートはそのことを知っていましたが、
水泳大会の無様な私を見ていたので、

「陸上部やったんやて?勝負しよ?陸上部やから、案外走るのはマシやろ?俺も陸上部やし。」

って言われたのを鮮明に覚えています。(そいつの名前すら覚えています(笑))

「よーい、ピッ!」

と笛が鳴りスタートすると、
まぁ楽勝でした。

その位の距離では、全国の中学生の中でも上位でしたので、
たいていの人と走っても私に勝てる人はいないことを知っていましたから。

その走る私をみて、
体育の先生からクラスメート全員がパラダイムシフトを起こしました。

水泳ではあんなにダメダメの運動音痴かと思ったのに、
明らかに走るスピードの絶対値が違うことに。

これはすぐ噂になって広まり、
1ヶ月半後の運動会で、メインイベントの1500M走に出ろということになりました。

なぜ1500Mがメインイベントかというと、
その中学校ではサッカー部が強く(後にJリーガーになったのや、大阪選抜も何人もいました)、
彼らの中でも最も優秀な選手がクラス代表で出るのが1500M走だったからでした。

1500Mは走ったことなかったのですが、
まぁサッカー部なら勝てるだろと思って承諾したんですよね。

で、運動会当日。

大阪に来て以来まったく運動すらしなかった状態で1500Mを走り、
なんとサッカー部の2人に負けてしまいました。

3位だったわけですね。

ああ・・・・また馬鹿にされる。

しかも口だけの大法螺吹き野郎とか言われるんだろうなというのが、
すぐに頭をよぎりました。

クラスに戻ると、
何人かのクラスメートが速攻で寄ってきました。

完全に冷やかされるんだろうな・・・・と覚悟を決めていました。


「お前、すごいな!やっぱ、速いなぁ!みんなビックリしてたで!」

「えっ?・・・でも1位じゃなかったしな。」

「そりゃそうやけど、アイツら(1,2位)はずっと運動会のためにメッチャ走り込みしてたしな。お前に勝つために。

しかもアイツらだけでなく、1500M走に出てた奴らみんなサッカー部で練習しとったし。

それに、何も練習せんと、
○○チャン(4位)に勝ったって凄いで!」


完全にヒーローでした。


イエス・キリストではありませんが、
これが私が死からの復活を果たした瞬間でした。


運動会後、中学校の陸上部の顧問がやってきて色々聞かれましたが、
私の広島での800Mの記録は大阪のそのエリアでの新記録とのことでした。

死から復活した私はもう、
大阪での生活は完全に一変しました。

他のクラスからも友達が出来、
運動会で一緒に走ったサッカー部員たちとも仲良くなり、
完全にアウェーからホームになりました。

余計なことかもしれませんが、
おかげで大阪女子にもモテるようになりました。
(これが嬉しかった!)

そして、クラスの中心的な存在にもなれました。

そんなこんなで、あっという間に中学生活が終わり、
大阪の男子高に入学。

高校入学で環境はリセットされましたが、
転校の経験を乗り越えていたので高校生活に慣れ、
自分のものにするのはあっという間でした。

「お前、言葉のイントネーションが何か変やぞ。」

と突っ込まれながらも、
それを武器にして笑いを取れるほど余裕がありました。

そんな高校生活で、またしても現実をつきつけられ、
地に落とされることとなりました。

高校最初の学年統一テストの結果を、
これもまたハッキリとおぼえています。


598人中、593位


さらに国語は598人中597位で、
偏差値がなんと29でした。

先生との面談で、

「まぁ、ボチボチがんばりや・・・以上」


今度は一気に、
落ちこぼれの中でも落ちこぼれの道を歩むこととなったのです。

今回は、前回の続きではないテーマで書いてみます。

今後どこかで前回の続きは書いていきます。

僕が行なっている住宅業界向けのCGプレゼンサービスでは、
お客様(御施主様)に毎回アンケートをもらうようにしています。

どんなアンケート内容かというと、

「どんなことで今悩んでいるのか?」
「どうやってイベントを知ったか?」
「イベント参加の決め手は何だったか?」
「結果どうだったか?」

ザックリとこんな感じです。

んで、最初の

「どんなことで今悩んでいるのか?」

の質問が結構キーだったりしているんですけど、
この質問に対してほぼ10割を占めている回答があるんですね。


「イメージがわかない」


これから建てようと計画している(注文)住宅ですが、
「イメージがわいていない」んですね、ほとんどのお客様が。

それまで何度も説明受けたり、
住宅展示場に行ったり、
住宅メーカーのイベントに行ったりしているのにも関わらずです。

さらに平面図だけだと「イメージがわかない」ので、
手書きパースだったり、それこそCGパースを作ったり、立面図を作ったりするわけです。

住宅営業マンは手を変え品を変え、
めちゃくちゃ一生懸命やっているんです。

そうやっているにも関わらず、

「イメージがわかない」

と、
ほぼ10割のお客様が悩んでいる始末。

私のCGプレゼンイベント終了後、

「やっとイメージがやっとわきました!」

との声を沢山頂戴します、というかほとんどがそんな感じの結果をいただいています。


なぜそんな結果になりやすいのか?


「イメージがわかない」と言うお客様の本来の意味を理解する必要が、
そこにはあると考えています。


住宅営業マンからよーーーく聞くのが、

「注文住宅は建売と違ってカタチが無いものなので、
お客様(のような素人)ではイメージするのは難しいのが当たり前なんですよね」

とか、

「このお客様は、平面図を立体にしてイメージするのが結構苦手みたいなんですよね」

とか、

「(ハイクオリティの)CGイメージパースさえ出せれば、なんとかイメージを掴んでもらえることが多いんですけど・・・」

とかとか。


「イメージがわかない」状態が続いた結果どうなるかというと、
「イメージがわかない」まま購入の決断を迫られるので、
わかりやすい「スペック」での比較・決断になっちゃうんですね。

つまり、価格ドットコム状態です。

値段が安い順、性能・機能の良い・多い順とかの「スペック」です。


「イメージがわかない」ってどういうことか?


そのためのクイズを出してみますね。


Q:土地面積35.6K㎡ってどのくらいの大きさでしょうか?
わかりやすく教えてください。



35.6K㎡っていきなり言われてイメージ出来る人、いますか?

とにかく広いんです、だだっ広いんですって感じですよね、一般的には。


この状態こそ、


「イメージがわかない」


ってやつです。


「イメージがわかない」と、


「・・・で?(汗)」


ってなりますよね。


これです、「イメージがわかない」って言っているお客様の頭の中は。


こんなときに、

「35.6K㎡って、山手線の内側の約半分くらいの大きさです」

って言われると、
だいぶ「あ~~~、なんとなくイメージつくかも・・・」

って「関東圏の人」にはわかる人が増えるかもしれませんね。


と、「イメージがわかない」状態のまま、

「今ならお値引きも最大限しているので、ぜひご決断下さい!」

って言われたとしたら、どうでしょうかね。


実は「イメージがわかない」から「イメージがわく」状態になってもらうために、
僕はCGを使って御施主様にプレゼンしています。


時間にして、1人1時間程度です。


ただ綺麗な画像を見せるとか、完成CGを見せるとか、
そういった表象的な(当たり前な)要素以外のところにかなり意識して頑張っています。


次回以降で、
もう少し掘り下げて書いていこうかと思います。