意見の異なる人とのコミュニケーションのひとつとしてディベートを挙げました。
これは自分の意見の方が正しい、あるいは優れていることを認めさせようとするものです。
言いかえると、A>Bを証明しようとする行為です。
実は私は昔このディベートに憧れました。
特に大統領選挙の候補者による討論会などはワクワクして観ました。
日本ではあまり見かけませんが、海外特にアメリカでは体系づけられて普及しており学校でも学んでいるということです。
自分なりに本を探して勉強を続け、ある程度身につけることができたと思っています。
会社の同僚などからも「味方にすると頼もしいが、敵にまわすと怖い。」などと言われるようになり、それを誉め言葉と受け取っていました。
だいたいディベートで勝つと同じ意見の人からは称賛を浴びます。そうですね、ブルース・リーの映画でカンフーの達人が悪人をバッタバッタとやっつける、そんな感じです。
しかし、調子に乗りすぎました。
上司を論破してしまったのです。
その結果、「左遷」されてしまいました。
いつも上司にドヤされていた同僚たちは最初はウップンを晴らせて誉めてくれましたが、左遷が決ると誰も助けにはなりません。
その後もその上司からは陰に日向に足を引っ張られました。露骨に昇進会議で私の昇進を反対されたこともあります。これはその人が定年退職するまで続きました。
そうなんです。ディベートのように勝ち負けの発想でいると、仮に勝ったとしても負けた相手には恨みが残ります。
特に鮮やかに勝った時ほどそうです。
私は今はディベートは武道のようなものだと考えています。
修行して強くなればなるほど日常では使ってはいけません。
剣の達人がひとたび刀を抜けば一瞬にして相手を倒します。しかし、今なら殺人罪になります。
江戸時代で仇打ちが認められていた時代であっても、恨みの連鎖は続きます。
刀を抜いてはいけないのです。抜くとすればよほどの状況であって一生に何度もないでしょう。
ディベートを勉強することは悪いことではないと思います。論理的な思考を身につけ論理の欠陥を見破ることが出来るようになります。しかし日常生活では使わないように心掛けることを強くお勧めします。
しかし、武道と同じで少しかじった人間ほど喧嘩に使いたくなるようです。そして生兵法は怪我の元と言いますが、逆にやっつけられたりします。また勝ったとしても無事ではすみませんし、遺恨を残します。
本当のディベートの達人は武道の達人のようにおだやかで争いにならないように持っていける人ではないかと想像しています。
さて、「私はディベートなんかしていない。」と言う方は多いのではないでしょうか。
確かにディベートの技法は使っていないかもしれません。
しかし自分の意見の方が正しい、優れている、A>Bだと言ってはいませんか。これは「ディベート的発想」です。
お客様に対して意見をおしつけていませんか。
お客様の反論に対して理屈で説得しようとしていませんか。
お客様が反論できなくなり、黙ってしまう。それで何となく快感を覚える。
でもそれで買っていただけましたか。
これらはみな「ディベート的発想」です。
営業の目的はお客様に買っていただくことです。論破することではありません。
「ディベート的発想」すなわち「自分の意見の方が正しい、優れている、A>B」という考えは捨ててください。
残念ながら多くの営業がこの失敗を犯しているのを見かけます。