何度も似たようなことを書いているのだけど、僕の今の関心は、アウトプットだ。

 

まず動いてみる。

まず書いてみる。

まず描いてみる。

まず話してみる。

まず歌ってみる。

 

何でもよいからやってみる。楽しいと思うことをする。

小さなアクションでいいので、それのクオリティにこだわらず終わらすことを大事にする。

 

これだけで、随分と風通しのよい状態になったように感じる。

 

そして、これが重要な発見だった。

アウトプットをしていると、インプットが変わる。

 

どういうことか。

 

インプットの質が豊かになる。自分にとって本当に有益な情報として入ってくるようになる。

受容とはただ受け身でいることではなく、もっと動的なプロセスなのではないか。

 

あるいは、インプットとアウトプットは同時に起こっているのかもしれない。

 

観察であれば、ある対象を見るのと同時にその対象そのものになっている。あるいは、見るのと同時にそれらを説明する言葉を用意し、それらの描くための細部をイメージしている。美くしさを見出す人もいれば、そこに音楽が聞こえてくる人もいるだろう。

それぞれのインプットに個性がある。同じものを見ても感じ方が異なるというのは、つまり、受容というものが、その人の観念によって恣意的に選び取られる行為だということを意味している。

 

そう考えていくと、インプットとは、一つのアウトプットなのだということもできるかもしれない。

 

だから、最初にアウトプットを癖づけておくことが良いのだと思う。

それは、情報過多、特にネガティヴな情報が多い現代において、身を守る重要な方法だ。

自らのアウトプットにしたがって、快に基づいたインプットができるようになるから。

不必要な情報はすり抜けて消えてゆく。

 

だから情報を詰め込むだけのものは教育ではない。受験テストなどは制度として必要なのだろうけれど、情操教育とは分けて考えるべきだ。

 

こんなまどろっこしく話さないで、野口晴哉先生なら、ただ「自発性」というかもしれない。