昨日炊いた米が少なかったため、娘の朝食はパンになった。

 

妻は耳をとった食パンを、一口か二口で食べれるように切って盛り付けしていた。

たくさん盛られているもの、大きなものは見た目で食べないことが多いためだ。

 

また最近は、幼稚園の弁当にしても、おにぎりと、ちょっとしたお漬物だけと、シンプルなメニューを求める。

どうやら友だちがそうらしく、真似しているところもあるのだが、たくさんおかず詰まっていると、もういいやという感じになるのだろう。

 

そして、9種的なところがある妻は、気持の込め方が強い。濃いと表現した方が適切か。

母親としては、娘の健康のために栄養バランスを考え、精魂込めて作っているわけで、弁当の品揃えを少なくしろといわれるのは、複雑な気持ちになる。母と娘のせめぎ合いがここに発生しているわけだ。

 

しかし、胃の中の状態は変わらないのに、視覚情報によって腹が満たされるというのはよくよく考えると不思議だ。人間以外の動物ではなさそうな気がするけど、どうなのだろう。

 

そうすると、自分たちは何を食べているのだろうかという話になる。

この世界には不食と言って、食べないで生きている人もいるらしく、彼らがいうには空気中のプラーナ(気のようなもの)を摂取しているから大丈夫らしい。食べなくていいならこんなエコな話はないのだが、それは、極端な例としても、断食の効用は様々なところで語られているし、自分の周囲には一日一食の人は結構いて、みな生き生きとしている。

一日三食食べなくてはいけないというのは固定観念なのだ。

 

野口先生は、戦後すぐの物資の少ない時代に餓死していった人びとをみて、「食べない」と「食べられない」は違うと感じた。

程度はあると思うけれど、「食べられない」と感じていたひとが先に弱っていってしまうというのは本当のように思う。

 

つまり、食には自発的な要求が関係している、ということなのだろう。

 

であれば、僕たちは、食べる以前の要求を丁寧にみていく必要がある。

そしてまた、食事をただ食べる時間としないで、その中で情緒を育むようしたいと思う。

 

ところで、娘はそのパンを食べたか?

 

答えは、、、。

 

 

ないと話した、お米を欲しがり、釜にぎりぎり残っていたご飯をおいしそうに食べたのでした。

 

ないものは欲しがる。面白いものです。