海軍、支那事変記念写真帖 ③ 写真帖の所有者は? | junとさらくのブログ

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 この写真帖、もともとは海軍省が選んだ爆撃や空母の艦内生活の写真を掲載したものだった。

 

 最初に書いたように写真はかなり厚い紙の片面だけに印刷されていて、裏面はまっさらなものだった。そこにこうした個人写真や、所有者が戦後家族を持ってからのものと思われる写真が糊で貼り付けられていた。

 

 海軍写真帖であると同時に、個人と家族の写真帖にもなっていた。

 

 「佐世保海軍航空隊」と書かれた海軍水兵制帽を被った青年。

この青年の写真は背景や場所、制服の違うものを含めると計9枚が貼り付けられていた。このことから、この人が写真帖を購入した所有者であったと思われた。

 

 あごのラウンド型曲線が特徴的で、他の人たちと写った集合写真の中にいても区別しやすいと思われた。

 

 そこでこの家族写真の中で探してみた。服装や雰囲気から戦後に撮ったものではないか。右上の杭には「邪見地獄」とあるので、これは雲仙温泉へ行った時のものであることがわかった。

 

 

 人物を拡大してみた。

 

 

 

 この3枚の写真は、あごの形から同一人物であると思われた。

 

 加齢による顔の筋肉の付き方の違い、皴のあるなしの違いはあるが、水兵の制服姿の青年と同一人物であると思った。

 

 

 ところでこの写真帖にはこうした乗組員たちの集合写真も多数掲載されている。これは空母加賀甲板で撮られた写真で、司令部下士官兵となっている。

 

 加賀には全部で二千人近くが乗っていたから、一つの分隊だけでもこれだけの人数がいた。

 

 分隊ごとの写真は第一からこの第三十一分隊まであり、すべてがこうして下士官と兵たちを分隊ごとに集めて撮ったものだった。

 

 わざわざ将兵全員の写真を掲載したということは、その人たちに写真帖を購入してもらうためだったからだろう。当時は海軍御用達の写真館がいくつもあり、許可されて軍艦や航空機に同乗し前線まで行って写真撮影をしていた。これまでに紹介した爆撃を写した写真は、そうした写真館から派遣されたカメラマンたちが撮ったものと思われる。

 

 実際に行われた作戦行動の記念写真帖を制作して発刊すれば、海軍の宣伝になり入隊志願者をふやすことにつながるから、海軍としても積極的に写真館に協力しただろう。購入するのは作戦に参加した将兵以外にも、海軍が各方面の関係者たちに配るため多数買い上げていたと思われる。

 

 写真館としてもかなりの部数を確実に購入してもらえるから、大きなビジネスになったことは間違いない。

 

 さて、こうした集合写真の中に佐世保海軍航空隊の帽子を被った青年がどこかに写っているはずと拡大鏡も使いながら見てきたが、残念ながら加賀乗組員の中にはいなかった。

 

 

 第一航空戦隊を構成したのは空母加賀と、2隻の駆逐艦だった。

駆逐艦の役割は空母護衛もあったが、空母の艦上機が戻って来て着艦するときに時々事故を起こすことがあり、操縦士らを救出する任務もあった。

 

 戻って来た艦上機は空母の長さ200mもない甲板上で停止するため、機体後部下にフックが付けられていた。そのフックを甲板上に横に張られたワイヤ―に引っかけなければ止まれなかった。

 

 これは現在の米軍空母搭載のジェット機でも同じで、支那事変の時より電子的な着艦誘導装置は発達しているに違いないが、着艦の最終段階では、やはりフックがワイヤーをつかめるように高度を下げて来なければならず、パイロットのカンがものを言うようだ。そのため常時訓練が必要となり、硫黄島は遠すぎるからという理由で今は岩国で訓練するようになった。

 

 また対空砲火などで被弾して脚が壊れた状態で戻って来た場合には、海に着水しなければならない。支那事変当時は駆逐艦から小回りのきく手漕ぎのカッターを事前に降ろしておき、着水したらすぐに操縦士らを救出に向かった。海軍ではこの任務を「トンボ吊り」と呼んでいたという。

 

 うまく着水できたとしても飛行機はすぐに機首を下にして沈み始めるため、操縦士たちは大急ぎでベルトを外して海に飛び込まなければならなかった。波やうねりがある時には着水はもちろん、救助する方も命がけの作業になっただろう。

 

 当時の駆逐艦の乗組員は約150人、その中の将校となると各艦これだけしかいなかった。右上は「追風(おって)」、左下が「疾風(はやて)」の艦長以下将校。

 

 前列中央で胸を張って日本刀を前に出し、誇らしげにしている人が疾風の艦長であることは明らかだ。

 

 2列目に見える若い人は海軍兵学校を出たばかりかもしれない。少尉として乗り組み、駆逐艦ではすぐに航海長を務めた人もいた。兵学校では即戦力になれる人を養成していた。

 

 

 これだけ大勢の人たちが写った写真の中から、この記念写真帖の所有者を見つけるのは大変だった。写っているとしても佐世保海軍航空隊の帽子を被っているわけではなかったからだ。

 

 当時の海軍の制度を調べて見ると、航空隊飛行兵になるにはいくつかの方法があり、その一つとして艦船乗り組みの水兵が志願して選抜試験に合格してという手段があった。おそらく記念写真帖所有者はこの方法で飛行兵になったと思ったが、この当時には水兵の一人にすぎないから制服や帽子は他の人たちと同じだった。例のあごのラウンドに注目して探すしか方法はなかった。

 

 いい加減あきらめムードになりながら、最後のページの疾風第四分隊の写真を見ていった。

 

 最前列、左から3人目

 

 この人のあご、似ているのではないか?

 

 (次回は今月末までに掲載予定)