原爆投下後の機銃掃射 長崎市 | junとさらくのブログ

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 三方を山々に囲まれ、人の暮らしやすい平地はといえば谷底を流れる浦上川周辺のわずかな土地だけ。

 

 ところが、そのわずかな平地には巨大な軍需工場が南北にびっしりと建てられ、工場群の北端には魚雷などをつくる広大な兵器工場があった戦前の長崎市。

 今、兵器工場は大学のキャンパスとなり、段々畑しかなかった山の斜面には家々やビルが建っている。

 

 長崎市の住宅地竹の久保の墓地から東方向を撮ったこの写真、中央の山すそに見える白いビルが長崎大学付属病院。

 

 爆心地はその左手で、77年前の8月9日に米軍爆撃機が投下した重さ4.5トンの原爆は、テニアンで米軍担当者がセットした上空500mで起爆した。

 爆心から南西へ約1キロのこの場所は、熱線や高温の爆風、炎、放射線で壊滅させられた。

 

 この墓地もかっては住宅地から離れた山手にあったのだろうが、長崎も戦後朝鮮戦争の軍需物資生産をきっかけに経済を持ち直した日本の一地方、ご多分にもれず発展し人口もふえ、民家やマンションに囲まれた。

 

 地区の管理する墓地らしく、墓の形は様々。

 

 

 

 

 

 爆心から1キロ、木造家屋は粉々となり火で焼かれ、住んでいた人たちは死を免れなかった。

 

 累々たる死体が街を覆い、その収容と荼毘のほとんどは生き残った人々の手で行われた。小学校の校庭でさえ、荼毘の場所とされた。

 

 それほどの惨状の中、防空壕に入っていたのかどこかへ出かけていたのか、竹の久保町の17歳の女性Kさんは生き残った。

 

 Kさんが家のあったところへ戻ると、人も家もすべての物が燃えてしまっていた。瀬戸物が燃えていたのを見たというから、相当な高温が発生したことの証左だ。弟が倒壊した家の柱の下敷きになっているのを見つけた。左目が飛び出て頭が割れていたものの生きていて、「水を」と言われて飲ませようとしたが喉を通らず、そのまま亡くなってしまった。

 
 原爆の炸裂は午前11時2分、そこら中でおきた火災を消す消防士はわずかで、ほとんど燃えるがままだった。ガラスや瓦も溶けて変形するほどの高熱が発生したため、木材、人体、機械、油などありとあらゆるものが燃え続けた。火災が発生するニオイが街々を覆い、生存者も耐え難い状態だったに違いない。


 さらに当日は快晴で、夏の日差しが降り注いでいたのに日陰さえなかったのだろう。Kさんは山の方へ行けば防空壕があり休めるかもしれないと思って、細い道を歩いて上がって行った。 

 

 

 異変が起こったのはその時だった。突然、上空に飛行機があらわれ、Kさん目がけて機関銃で撃ってきたのだ。

バッバッバッバ、銃弾が墓に当たって跳ね返ってきた!防空頭巾を被っていたが、怖ろしくなって地面に伏せながら飛行機を見上げると、機体横の「下がり窓」から機関銃を撃っているのが見えた。

 

 下がり窓はあまり一般的ではないが、日本の民家でもたまに見かける四角、あるいは縦長の窓で、上下に動かして開け閉めする窓のこと。Kさんはおそらく、爆撃機の四角い窓からそう発想したのだろう。

 

 原爆投下後のこの体験談は、当時竹の久保町に住んでいた女性の証言を今年1月に知った私が、それをもとに一部書き直したものだ。これまでも数人の被爆者の証言が、この原爆投下後の機銃掃射について触れていて、実際にあったことだろうとは思っていた。

 

 しかし、機銃掃射といえば空母から攻撃に来た艦載機のグラマンがよく知られている。この当時はアメリカの空母を擁した二つの艦隊が、日本近海を南北へ移動しながら本州や九州などの攻撃を続けていた。しかし米軍の記録によると、8月9日ごろにはいずれの艦隊も九州近海にはおらず、東北沖にいたことがわかっているから、グラマンが行ったものではないことがわかった。

 

 今回はこの「下がり窓」のある飛行機ということから、機種が特定できるかもしれないと調べてみた。「アメリカの爆撃機」という写真集(野原茂著、光人社2002年、ここに掲載の3枚の爆撃機の写真はすべてこの写真集より)の中に、それらしい爆撃機が掲載されていた。

 

 それはB-17、B-24、 B-25 であり、この写真はB-25だ。主翼と尾翼の間の機体側部に窓がある。    

 

 この窓にはガラスがなく、攻撃して来る敵戦闘機を迎撃するための機関銃が備え付けられていて、射手1人が操作した。機体左右にあり、それぞれに機関銃と射手がいた。

 

 高速で接近する敵戦闘機を撃つために、銃口は上下左右自由に向けられたから、地上への銃撃も容易だった。

 

 

 アメリカ本土で大量生産中のB-24

 

 当時、九州各地とその沖合の船を爆撃、機銃掃射していたのは沖縄に基地を持つアメリカ陸軍航空隊と海軍航空隊、それに海兵航空隊だ。

 

 これまでの調べでは、陸軍航空隊がB-24とB-25を使っていたことまではわかった。長崎に原爆を投下した翌日の8月10日には、熊本市や水俣、宮崎などをこれらの爆撃機集団が攻撃している。

 

 B-24はB-29を一回り小さくしたくらいの大きさだが、50機近い集団で低空から焼夷弾を落とし、機銃掃射まで行うという容赦ない攻撃で各地では大きな被害を受けた。

 

 

 

 竹の久保の墓地には一部が欠けた墓がいくつかあるが、それが銃弾によるものか長い年月によるものかはわからなかった。

 

 上空から機銃で撃たれながらこの墓地を逃げ惑ったKさん、原爆の翌月には親戚がいた離島へ生き残った家族と避難した。家族全員、具合が悪く横になっていたが、まもなく妹と母親が亡くなった。

 

 原爆で壊滅した街にさらに追い打ちをかけた機銃掃射。信じられないような話しだが、激しい憎悪、軽蔑が米軍にさせたことだ。

Fucking Jap!などと叫びながら機銃を地上に向けて撃ちまくる若い米軍兵士、宣戦布告なしで真珠湾を奇襲攻撃した日本人は卑怯者、どれだけ殺してもかまわない、女も年寄りも関係ない。

 

 日本海軍が真珠湾で使った魚雷はほとんどが長崎の三菱兵器でつくられたもので、それを誇る社歌まであった。原爆を落とされた後、長崎ではアメリカはそれを知っていたからここに落としたという話しが、憲兵隊や特高警察には聞かれないよう小声でささやかれたという。

 

 

 

 原爆投下後の機銃掃射、それを米軍のどの部隊がしたのか。

命令があって行ったことか、それとも行きずりの思いつきでしたことなのか。

 

 最近、米軍極東航空軍と総称される当時沖縄を基地とした航空部隊の記録を入手できた。その膨大な記録の中から、肝心の記録を見つけ出すのは容易ではなさそうだが、トライしてみたい。その過程で、これまで知られていない他のことも出てくるかもしれない。

 

 射殺された安倍元首相が言い始めた敵基地攻撃能力、この権限を自衛隊が自由に使い始めると、真珠湾攻撃に匹敵する作戦も可能となる。反撃能力と言いかえようとしているが、先制攻撃できるように法改悪することが目的なのだ。攻撃すれば、必ず報復がある。敵基地と称するものを攻撃しても、その国の武力を壊滅できるわけではなく、残存するさらなる武力を使って倍返し、報復される。

 

 敵基地攻撃が終わりではなく始まりとなることは、日本ではいまだに「見事だった」と言われている真珠湾攻撃の後のありさまを見れば明らかだ。日本人だけで310万人が死ぬことになった。軍人に振り回される事態を二度と繰り返さないため憲法9条が制定されたが、いまや空文化してしまった。

 

 文中、Kさんの証言として書いたのは、原爆資料館とNHK長崎の企画で行われた「未来へつなぐ 令和 原爆の絵(第一期)」で紹介された絵と文章をもとにしている。この展示はネットで見られる。Kさんの証言は、NHK長崎放送局のサイト中の令和原爆の絵特設サイト、第一期の「もっと見る」をクリックすると14段目に掲載されている。