さくらゆきファンクラブ歴史講座 第3回 『関が原』(文禄・慶長の役編)その2 | さくらゆきファンクラブのブログ

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しかし翌年1月に援軍として南下した明(中国)軍と朝鮮軍の連合軍の大攻勢の前に戦線は縮小、漢城(ソウル)へ南下しなくてはならなくなります。
攻め寄せる明・朝鮮連合軍に対抗するために三成達は漢城(ソウル)に軍を集結させようとしますが小早川隆景は、その命令に従おうとせず吉継がわざわざ出向いて説得しています。
漢城に迫る連合軍に対して日本軍は北方18キロの碧蹄館(ペクジェグワン)で迎撃戦をするべく軍評定を決定しました。
この地はまだ未踏査なのですが衛星、航空写真で観察したところ関ヶ原と似た地形で二つの丘陵に挟まれた南北に伸びる狭隘渓谷で攻め寄せる明朝鮮軍にとっての出口である南側は二つの小山、小丸山と望客峴があり日本軍はここに本陣を置きました。
そして1月26日に小早川隆景、立花宗茂の活躍により勝利しますが三成、吉継の戦場での活躍は記録にありません。



さくらゆきファンクラブのブログ-碧蹄館戦闘図
「碧蹄館戦闘図」



続けて漢城の守備を強化するべく南東方向14キロの幸州山(ヘンジュサン)に籠もる義兵と朝鮮軍を駆逐するべく2月12日に攻撃します。
総勢3万の軍勢を7番隊まで編成し三成、吉継も増田長盛、前野長康と共に2番隊として参戦。
激烈を極めた戦闘に三成、長康が負傷するも朝鮮側に援軍が到着した事により撤退を余儀なくされました。



さくらゆきファンクラブのブログ-幸州山城全景
「幸州山城全景」


しかし今後の漢城の維持が困難と判断した日本軍は釜山まで撤退5月に三成、吉継は明国使節を伴って帰国23日に名護屋にて秀吉との会見となりますが翌日には再び朝鮮に向け渡海します。
そして釜山西方の普州城(チェジュソン)攻略の準備を進め6月19日には二人も参戦して、29日にこの城を落城させています。
ここに「文禄の役」は休戦となり講和交渉期間に入り三成、吉継、長盛。
そして小西行長がその任にあたります。


しかし8月になると開戦時には朝鮮に渡海しようとしてまでこの戦争に意欲的だった秀吉ですが淀とのに間に拾、後の豊臣秀頼が誕生した事で戦争に対する興味が一気冷めたのか大坂に帰ってしまい二度と名護屋には来る事はありませんでした。


一足早く4月に帰国していた三成に続き9月に帰国した吉継は翌年文禄3年の初めに伏見城の普請の命を受け敦賀の商人を駆使して材木の調達、輸送に手腕を振るっていますが、やがて再開される「慶長の役」では病が進んでいたのか、その後朝鮮に渡海する事もなく交渉役としても表立った活躍は確認できません。


一方、三成は秀吉の息子秀頼可愛さと老年性痴呆症を思わせる異常な行動、文禄4年(1595)の関白秀次事件の時も「豊臣政権安泰」の為に粉骨砕身しており大坂から動くことはありませんでした
そして慶長2年(1597)に再開してしまった「慶長の役」を秀吉の死亡(1598年8月18日)した事で急遽停戦、朝鮮に渡っている将兵を秀吉の死を伏せたまま撤退、日本への帰国をさせる準備をします。
三成の尽力により300隻の船が調達され博多に集結、朝鮮から将兵達を全員その年の12月には無事に帰還させました。
ここにも三成の兵站奉行としての腕が発揮されたのです。


しかし足掛け7年に及ぶ朝鮮での無益な戦いに疲れっきった切加藤清正を中心とした「武功派」武将たちには、


「地獄のような戦場の苦労を知らず太閤様のもとでのうのうとしおって!
三成憎し・・・」


という憤怒の思いで溢れていました。


そしてこの思いを巧みに家康に利用され関ヶ原へとつながります。


                               了

   

注・文章の構成上、一部敬称を略した事をご了承ください。