「心もしのに」考(柿本人麻呂と近江大津宮)

( 万葉集巻3—266 ) 

by  SAKURAnoG

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

 

(琵琶湖の岸辺 夕日を浴びて群れ集う千鳥たちよ お前たちが鳴けば ただひたすらに いにしえの出来事が思い出されて 私の心は張り裂けそうだ )


皆さん、こんにちは。今回は、夏の夜のつれづれにやまとうたについて語ろうと思ひます。

筆者の訳を読まれた読者の方の中には「あれ?」と思われた方もいらっしゃるかもしれませんね。そうです、「心もしのに」というのは、「心も萎えるほどに」という意味じゃないの? はい、一般的には、そのように訳されています。

でも、筆者はそうではなく、「しのに」というのは、物事の一途で激しいさまを表す言葉だと捉えています。「心が萎える」というのとは少し違うんじゃないかな、ということです。

そこで、この記事では、どうして筆者がそう思うのか、『「心もしのに」考』と題して、いろいろと考えをめぐらしていこうと思います。

 

全体を2部に分けて、歌の評釈に入る前に、第1部では、まず解釈のわかれる「心もしのに」について、万葉集の他の歌も鑑賞しながら、その意味するところに迫っていきます。第2部では、歌と語義の評釈、並びに柿本人麻呂が生きた時代背景について筆者の思いを語りたいと思います。

 

目次

(第1部)

1.「心もしのに」考

1-2. しのに:強い力で一方向に靡かせる

1―3.「ひたすらに」

1-4.「一生懸命」「一心不乱に」「必死に」

1-5. 「心が乱れて」「心が乱れるほど激しく」

(第2部)

2.柿本人麻呂と近江大津宮

2-2.人麻呂が生きた時代

2-3.天皇家礼賛の歌

(その1)

「大君は神にしませば」

(その2)

「東(ひむがし)の 野に炎(かきろひ)の」

3.語義評釈

4.歌評釈

1.「心もしのに」考

この記事の主題である「心もしのに」ですが、主流は「心もしなえる」という解釈です。古語辞典などにもそう出ていますね。さらに、辞書には筆者の言う「一途な激しさ」を表す訳語は出ていません。しかし、筆者は何度も言いますが「しのに」はもっと激しい言葉だと捉えています。

個々の語義も大事ですが、一旦、先入観を捨て感性を大事にして読めば「心もしのに」という言葉が、もっと通説とは違った意味を持っているんじゃないかということが見えてくると思います。

まずは、「心もしのに」の「しのに」というのは、どういった語感なのでしょうか。次の歌で見てみましょう。

 

1-2. しのに:強い力で一方向に靡かせる

秋の穂を しのに押しなべ〔押靡〕 置く露の 消かも死なまし 恋ひつつあらずは

(巻10-2256)

<実った秋の穂を 強く押さえて靡かせる そのつゆがやがて消えてゆくように スーッと〇んでしまえたらいいのに こんなに苦しい恋などしていないで>

 

しのに押しなべ: 何か強い力でギュッと押してなぎ倒すようなイメージだと思われます。「押しなぶ」は、「無理に靡かせる、横に伏せる」(詳説古語辞典三省堂P235)。

これからわかるように、「しのに」は、強い力で(一方向に靡かせる、なぎ倒す)といったイメージで、そこから「心もしのに」が「心が強い力であるものに向けられる」「一途に」「ひたすら」という意味になったと思われます。

 

1-3 「ひたすらに」

あしひきの 山にも野にも 霍公鳥 鳴きし響(とよ)めば うち靡く 心もしのに そこをしも うら恋しみと 思ふどち ……(巻17-3993)

<野山のあちこちでホトトギスが鳴き騒いでいるので そのことがひたすらに 恋しく思われて(居ても立ってもいられない)仲間たちが 集まって ……>

⇒「うち靡く」が「心もしのに」の導入として枕詞的に使われています。心を一方向に靡かせるように何かに向かってひたすらに、といった語感ではないかと思います。

 

では、他の歌でも「心もしのに」が、どのように使われているか見てみましょう。

 

海原の 沖つ縄海苔※ うち靡き 心もしのに 思ほゆるかも(巻11-2779)

<海原の沖の うみそうめん※が 潮の力で一方向に靡くように 私はただひたすらに あなたが恋しく思われることだ>

※縄海苔:「海藻のうみそうめんかともいう」「『なびく』……の序詞」(詳説古語辞典P918)

ここでも上の歌同様、「うち靡き」が「心もしのに」を導いています。長い海藻が潮の流れに押されて一方向に靡くように、ただ(あなたのことが)ひたすらに(恋しく)思われる、という意味かと思います。

 

梅の花 香(か)をかぐはしみ 遠けども 心もしのに 君をしそ思ふ(巻20-4500)

<梅の花は 遠くにあっても その香りはかぐわしく匂ってくる そのように あなたは遠くにいるけれど 私はあなたのことを忘れずに ひたすらにあなたのことを思っています>

一度は、言われてみたい言葉ですね。「香をかぐはしみ」というのは、「香りがかぐわしいので」という意味で、暗に遠くにいる恋人(「梅の花」)への想いを綴っています。

この歌は「遠距離恋愛だから、がん萎え~」と言っているへたれのような歌ではなく、もっと強い感情が込められています。

「心もしのに」「君を思ふ」のです。強くひたすらに想うさまを表現したものですね。「遠けども」と逆接の助詞がきていることが「心もしのに」が「心萎えて」ではなく、「ただひたすらに」「ますますさらに激しく」という意味であることを暗示しています。

 

以上、見てきたように「心もしのに」とは、心があるものに向かって強くひたすらに靡く状態を指します。

 

「心もしのに」の他の使われ方も見ていきましょう。

 

1-4.「一生懸命」「一心不乱に」「必死に」

 

☆夕月夜(ゆふづくよ) 心もしのに 白露の 置くこの庭に 蟋蟀(こほろぎ)鳴くも

(巻8-1552)

<月が出ている夕暮れ時 白露が置く私の庭で コオロギが短い命を惜しむかのように 一生懸命鳴いていることだ>

 

志貴皇子の子、湯原王の歌です。湯原王は、万葉集に相思相愛の一連の相聞歌を合わせて12首読んでいます。

この歌も単なる情景描写ではなく、コオロギに寄せて恋心を詠んだ歌と採ることもできそうです。

「心もしのに」を「心が萎えるように」と解釈する向きもありますが、筆者はコオロギが「心もしのに(一生懸命)」鳴いていると解釈します。「心もしのに」を歌の詠み手の感情「心が萎えて」として直接的に表現してしまうと、読者の想像力を限定してしまうため、薄っぺらでつまらない歌になってしまいます。つまり、寂しい心を読むのに「寂しい」と言っては、「それを言っちゃあ、おしまいよ」ということです。

 

ここでは、詠み手の心情は一言も表わさず、読者にそれを委ねています。湯原王は、夕暮れ時に庭のコオロギが恋の相手を求めてしきりに鳴く声を聞いて、何を思ったことでしょう? 「鳴く『も』」から、詠み手のしんみりした感情が読み取れますね。

夕暮れ時、コオロギが激しくなく白露の置く庭、これだけの情景表現だけで、詠み手の心情を読者に想像させる、そこのところが、この歌の秀でたところだと筆者は思います。

コオロギに心なんかないだろう!という突っ込みは勘弁してくださいwww。

 

☆夜(よ)ぐたちに 寝覚めて居(を)れば 川瀬尋(と)め 心もしのに 鳴く千鳥かも

(巻19-4146)

<夜更けに 眠れずにいると 恋の相手を探し求めて 千鳥が一心不乱に鳴いていることよ>

(この鳴き声を聞いていると、京の都や昔の人が恋しくなってしまうなぁ)

 

奈良時代に活躍し、万葉集の選者の一人としても多くの歌を残した大伴家持の歌です。

千鳥の鳴き声は、懐旧の念をそそるのでしょう。この歌は、本稿のテーマでもある冒頭の「淡海の海」の千鳥の鳴くさまなどを念頭に置いたとも思われます。この歌が収められている巻19の冒頭近くには、越中守として赴任中の家持が、柳の新芽を折り取って、都の大路やそこを行き来したであろう女性たちを偲んだ歌や、雁などの鳥に寄せて望郷の念を詠んだ歌が収められており、この千鳥の歌2首も京の都や昔の人を偲んで詠んだ歌だと思われます。

 

「夜ぐたち」は、夜ふけ。「尋め」は、探し求める。「心もしのに」は、「必死に(鳴く)」。恋の相手を探し求めているわけだから、必死に鳴きますよね。これを詠み手の心情「心が萎えて」と解するのは、いかがなものでしょうか。「しのに」を「萎ゆ」の類語とする説には、なかなかに同意できません。それはこれまで見てきた例からも、これから見ていく歌からも、詠みとっていただけると思います。

 

⇒「川瀬尋め」には、字数制限に起因しないぎこちなさが感じられ、何らかの裏付けがあるわけではないのですが、筆者は「想う人を求めて」という意味で「川瀬尋め」という一種の定型的な表現が当時あったのではないかという気がします。

ここは「恋の相手を求めて」と訳しました。そうすることで、詠み手の心境(京の都やそこで一緒にすごした昔の人のことが思い出されるなぁ)ともぴったり合致しますね。

 

この語の解釈として「川の瀬を求めて」とする向きもありますが、なぜ川の瀬を求めるのかがよくわかりませんし、家の中にいる人がどうして見えないはずの「川瀬」という表現ができるのか、歌の世界の話と片付けるわけにはいかない違和感があります。

千鳥にしても、鳴いても川の瀬は応えてくれませんので、鳴く意味がありません。恋の相手だったら「おーい、ここにいるよ」と返してくれるから千鳥は必死に求め鳴くのです。

 

この歌は、次の歌とセットになっています。

☆夜ぐたちて 鳴く川千鳥 うべしこそ 昔の人も しのひ来にけれ(万 4147)
 

A)一般的な訳:

<夜が更けて 川千鳥が鳴いている(しんみりする声だ) なるほど だから昔の人たちも 千鳥の声をいとおしんで来 歌にも詠んできたんだなぁ>

B)筆者訳:

<夜が更けて 川千鳥が恋の相手を探し求めて鳴いたからだろうか なるほど 昔の人(別れた恋人/友人)も 自分を懐かしんで やってきてくれたことだ>

こう見てきて初めて、先の4146の歌の「川瀬尋め」が川の瀬を求めて、ではなく、恋の相手を求めて、という解釈で問題ないだろうということがわかると思います。

 

人が寝ているかもしれない夜更けに、しかもわざわざ京の都から訪ねてくる人がいるのか?という疑問には、一つの考え方として、この歌は昨夜のことを振り返って翌日に詠んだもので、「懐かしい人が訪ねてきてくれた。なるほど、うべしこそ、昨夜千鳥が必死に鳴いていたのは、こういうことだったのか!」とする解釈もできると思います。

また別の解釈として、家持は千鳥の鳴き声を聞きながら、寝落ちしてしまったのでしょう。夢の中に昔の人が出てきたよ、という訳もありかと思います。昔の人は幼馴染かもしれないし、都で共に過ごしたことのある女性のことかもしれません。

 

ここでひとつだけ、上の一般的な訳A)を是とするのであれば、逆に最初の歌の「心もしのに」を「心萎えるほど」と解するのは、整合性がとれません。最初の歌で「心が萎える鳴き声」と言っておきながら、次の歌で「なるほど古人も鳴き声を愛おしんできたことだ」というのは論理が破綻しています。「心が萎える」というのは、やる気がなくなるほどに心が折れてしまう、ということで、「しんみりする」とは違います。だれが心萎えてしまうような鳥の音を愛おしんだり、敢えて歌に詠んだりするでしょうか?

 

1-5. 「心が乱れて」「心が乱れるほど激しく」

☆夏麻(なつそ)引(び)く 命かたまけ 刈薦(かりこも)の 心もしのに 人知れず もとなそ恋ふる 息の緒にして(巻13-3255)

<心を寄せて想ったり 心が乱れるほど好きになったり 人知れず一途に恋をしたりするけれど そのどれもが 命がけなのさ>

 

これは、前段に「恋をすれば苦しいものだと 昔から語り継がれているけれど 相手の女の子がどう思っているのか わからないし わかる手段もないから」とあるのに続く後段の部分です。

 

「夏麻引く」は命または「い」にかかる枕詞。「刈薦の」は、もともと「乱れ」につく枕詞ですが、ここでは「心もしのに」が「心乱れるほどに(激しく)」の意であるために付いたと思われます。「もとな」は、わけもわからないほど一途に、ひたすら。「そ」は「ぞ」と同じ強調の係助詞、「息の緒」は命がけで。「かたまけ」については、「傾け」で「命かたまけ」とは心を寄せること、といった語義が辞書にあります。筆者的には現代語と同じ「命を傾けて、心から」といったもう少し強い意味に解釈したい気はあるのですが、浅学にして類例を知らないので、辞書殿に降参しました。

 

「もとな」も「息の緒」もそれぞれ、一途に、命を懸けて、といった強い言葉です。恋を題材にしている以上当然出てくる言葉ですよね。そこで一緒に登場する「心もしのに」も、強い感情を現わす言葉と捉えなければ、文脈にそぐいません。

 

ここでは「夏麻引く」から「人知れず もとなそ」まで、2句ずつで一つの意味を構成しており、それらが「恋ふる」にかかって、恋愛のいろんなパターンを表しています。

結句の「息の緒にして」は、直前の「もとなそ恋ふる」を受けて、「息の緒にして(恋ふるなり)」と採りました。つまり、初句から「恋ふる(連体形)」まで全部が主語で、それは「息の緒にして(恋ふるなり)=命がけの恋なのさ」です。そうすることで、前段の「相手の気持ちはわからないから」とうまく照応してきます。

 

⇒もとなそ恋ふる:「人知れず」を受けているので、「(わけもわからないほど)一途に、ひたすら」という意味だと思われます。忍ぶ恋を言っているのでしょうか? 辞書の語義「無性に」とは少し違う気がします。

この「もとな」を「こころもとなし」(おぼつかなく)の義に解釈される向きもありますが、これは直前の「心もしのに」を「心萎えて」と採ることから連鎖的にそう解釈せざるを得なくなっているのでしょうが、この文脈を「心もとなく恋をする」と読んだのでは、この歌はへたれのような歌になってしまうと思います。

 

☆あらたまの 年かへるまで 相見ねば 心もしのに 思ほゆるかも(巻17-3979)

<新年が明けるまで逢えないから そう思うと心乱れてさらに強く あなたのことが偲ばれることだ>

しつこいようですが、へたれの歌を好むか、激しい恋の歌を好むのか、あなた次第です。通説の語義にとらわれることなく、全体の世界観を感性で捉えれば、自ずと正解が見えてくるでしょう。古今東西、失恋の歌を除いては、恋は激しいものと相場が決まっています。

 

いかがでしたでしょうか。ほとんどすべての「心もしのに」が、程度の激しいさまを表していることが見て取れたかと思います。

 

淡海の海 夕波千鳥 汝が鳴けば 心もしのに いにしへ思ほゆ

 

次の第2部では、掲題の歌を心もしのに鑑賞していきます。


 

この原稿は、「ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ」からgooブログに掲載された加藤良平氏の2022年09月29日付『「心もしのに」探究』を参考にさせていただきました。(2025/08/01 goo blog :

https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/f8f4a36774d4b3483ae9c62458d2c865

 

第2部に続く