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                 寂光院

まかりきて ちゃみせにたてど 門院を かたりしこえの
みみにこもれる
                   会津八一 

(罷り来て 茶店に立てど もんいんを 語りし
 声の 耳に籠もれる)

詞書・・大原に三千院寂光院を訪ふ。

意味・・寂光院を辞して茶店に来たが、建礼門院の
    身の上を語った尼僧の声が未だに耳に残っ
    ている。

    寂光院には尼僧が住んで居り、訪れる人に
    幕(とばり)をかかげて建礼門院の像を見せ、
    涼しい声で平家の哀史「大原御幸」の巻を
    語ってくれる。その声が、寺の側らの茶店
    に来て立つ時、耳底に響いてくる、と言っ
    ています。
    
 注・・まかり=罷り。高貴の所から退出する。「帰
     る」の謙遜語。
    門院=建礼門院。平清盛の娘。高倉天皇の
     皇后。安徳天皇の母。1185年壇ノ浦で海
     に身を投げたが、救われて京都に還り、
     出家して寂光院に住む。
    大原=京都の北方約12キロの地にある村落。
     寂光院・三千院などのお寺があり、大原
     女で名高い。
    寂光院=建礼門院平徳子の遺跡があり、平
     家物語「大原御幸」の巻で名高い。

参考・・平家物語「大原御幸の巻」の要旨です。

    八島を追われた平家は、長門の国、壇ノ浦
    まで落ちのびたが、ついに武運尽きて、平
    知盛以下多くの人々が海底に沈んだ。1185
    年3月24日のことであった。清盛の妻二位
    の尼も安徳天皇を抱いて入水し、建礼門院
    もその後を追った。しかし建礼門院は、源
    氏の軍に救われて京都に連れ戻された。そ
    の後、建礼門院は京都東山の麓・吉田の里
    に住まわれたが、その年5月、29歳で出家、
    9月の末に京都の北郊大原の里の寂光院に
    お入りになり、念仏三昧の生活を送られる
    ようになった。翌年、後白河法皇が建礼
    門院を訪れてその御心を慰めようとなさっ
    たのが「大原御幸」の巻である。建礼門院
    の落ちぶれた姿を見て涙を流すばかりであ
    った。

作者・・会津八一=あいづやいち。1881~1956。早
    大文科卒。仏教美術史研究家。文学博士。

出典・・吉野秀雄「鹿鳴集歌解」。