8月8日から10日まで「Weフォーラム 」に参加するため、福島県郡山市に出かけていました。何回かに分けて、その内容をご報告します。
ちなみに、今回の旅費、参加費も政務活動費などではなくて自費です。

Weフォーラムは、私が連載をしている雑誌「We」が声をかけて実行委員会で企画を立てながら実施しているイベント。今回は福島で活動している「女子の暮らしの研究所」「peach heart」と共催でした。たくさんの出会いがある、もりだくさんな内容でした。

まず、8月8日の昼から9日の昼まではフォーラムのオプショナルツアーとして、「女子の暮らしの研究所」が実施するスタディツアー「Re:trip」に参加しました。

今回のブログでは8月8日の様子をご紹介します。

8日の昼過ぎに雨降る郡山駅で集合し、1台のバスに乗り込んだ私たちは、まず二本松市東和地区に向かいました。



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(ツアーについていろいろと説明してくれる、「女子の暮らしの研究所」の日塔マキさん。)


東和地区は平成の大合併で二本松市になった地域で、桑畑と棚田が特徴だそうです。

東和地区の道の駅に到着し、きぼうのたねカンパニー の菅野瑞穂さんからお話を聞きました。
菅野さんは20代の女性です。大学卒業後の2010年、実家の農業を継ぐために二本松に戻ってきて、農業で東和地区の特徴を出していこうと頑張っていらっしゃいます。
たとえば有機農業やグリーンツーリズム(農業に触れ合うことを目的とした旅の企画)。
養蚕が衰退した今、桑畑を活用するために桑の実を名産として売り出すなどもしているそうです。


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山に近いところはまだ放射線量の高い地域もあるけれど、粘土質で有機物の多い土からは、放射性物質はほとんど農作物に移行しないという結果が出ており、そのことは多くの人に知ってほしいとおっしゃっていました。


東和地区を後にして、私たちのバスは飯舘村を通って南相馬に向かいました。



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飯舘村は今は住民が避難して住んでいないため、かつて田んぼだった土地には草が生い茂っています。


南相馬では小高ワーカーズベース の和田智行さんと合流し、バスで移動して南相馬のまちの中を見ながら話を聞かせてもらいました。

南相馬市の小高地区出身の和田さんは震災前、東京にプログラマーとしての仕事の拠点を置きつつ、2005年に南相馬に戻って生活をしていたそうです。
震災当時、和田さんには2人の小さなこどもがいたため、関東に避難してしばらく暮らしていました。仕事の拠点はもともと東京にあったので、その点では大きな変化なく仕事を続けられていたけれども、自分の故郷が大変な状態になったのに今までと変わらない仕事をすることに違和感を持ち、現在は会津若松市に住んで南相馬の復興のために働いているのだそうです。

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和田さんは将来、家族と一緒に小高に帰ろうと話しあっているのだそうです。だから、こどもにとって小高が誇りに思える故郷になるようにと頑張っているのだ、と。

放射線量は落ちてきているそうですが、原発事故からすでに3年を超える時間が経ち、誰も住まない家は荒れてしまっている場合があります。
泥棒が入ってしまったり、その後開けっ放しになった家に動物が住み着いてしまうようなこともあるそうで、そんな中で、帰るかどうか悩む人も多いようです。たとえ戻ろうと決意しても、大工さんの仕事がめいっぱいで、家の修理を実際に頼めるのは何年も先になってしまいそうだという現実もあります。

今、人が住んでいない原発20キロ圏内には、津波で壊れた建物などもまだ残されています。
私たちは海沿いに行きましたが、ここはだいたい原発から15キロほど離れた場所だと聞きました。


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(遠くに見える、崖のようになったところの先に、原発があるそうです。)

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和田さんとその仲間たちは今、小高に帰った時の仕事づくりを考えているそうです。
そのひとつが養蚕と織物。
近年、養蚕はほとんど行われない状態になっていたけれど、年輩の人たちはこどもの頃に家で養蚕がおこなわれていた記憶がある。農業はなかなか難しいという中で、養蚕に可能性があるのではないかと、現在実験してみているところだということでした。



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小高駅前の駐輪場には自転車が停められたままになっています。(写真は雨が降っていて見えづらいですが、右奥の方が駐輪場です。)

これは2011年3月11日、高校生たちが通学のために泊めて行った自転車。その後震災が起きて避難を余儀なくされ、そのまま取りに来られなくなってしまった自転車です。

まちに若い人が戻れない状況が続いているために、コンビニやファストフード店などのバイトの人手不足も起きているという、日常生活の問題もお聞きしました。


1時間強、南相馬の見学とお話をお聞きした後、宿泊先である相馬市松川浦の宿「なぎさの奏 夕鶴 」へ向かいました。

宿で夕飯をいただきながら、相馬市議会議員の新妻香織さんのお話を聞きました。
新妻さんはもともと旅行関係の仕事をしていたことから始まり、アフリカの緑化活動をしてきた経験のある方です。
新妻さんはアフリカから故郷・福島に戻ってきた後、原発の問題にも関心を寄せてきたそうですが、当時の福島県知事・佐藤栄佐久さんが原発の問題について声をあげていたのに不当逮捕されてしまい、その後の知事は原発について何も意見を言わなくなってしまった。
そんな中で2010年秋にプルサーマルの運転が始まって、そして原発事故が起きたので事故はより深刻なものになってしまった。そのプロセスを見ていながら事故が起こるまで止められなかったことをくやしく思っている、と聞かせてくださいました。

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新妻さんは震災と原発事故を経た現在、いくつかの新しい活動を始めているということでした。
ひとつには、津波の到達地点に神社が多くあり、そこにかつて津波が来たことを知らせる意味で神社を作ってきたという可能性がある。それらを巡礼して震災のことを考えるきっかけにしたいという「東北お遍路(こころのみち) 」。
そして太陽光をはじめとする自然エネルギーへの転換を目指す「ふくしま市民発電 」の活動です。

原発事故を経て、福島から転換しなければならない!との思いで諦めずに頑張っていきたいというお話を聞きました。


私は震災以降、宮城県内と福島県の中通りに行くことは時々ありましたが、浜通りの地域に行くのは今回が初めてでした。
原発の影響によって津波の被害からの復旧もままならない様子を見て、目には見えない放射性物質の問題を改めて感じました。
また、浜通りでなんとか生活を立て直したい、大好きな故郷を復興させたいと頑張っている人たちのお話を聞いて、実際に行って当事者の話を聞くことの大切さをしみじみ感じました。
どうしてもニュースなどで見るときには、ひとりひとりの人というよりも地域全体、原発のことというマクロなレベルでの話に意識が向くけれど、そこで暮らしていた人にとっては、どこで暮らすか、何を食べるか、仕事はどうするか、買い物はどこでするか、という、あたりまえの日常の問題であることをしみじみ感じましたし、私たちもそういう日常のレベルから福島のことを一緒に考えていきたいと改めて思った、そんな1日目でした。