「ある精肉店のはなし」という映画を観ました11月17日の夜、練馬で「ある精肉店のはなし」というドキュメンタリー映画の上映会があったので、行ってきました。 大阪で精肉店をやってる北出さんご家族を追った映画です。 牛を育て、食肉にし、販売するまでの一連の仕事をすべてやっていた北出精肉店。 肉屋さんや皮革のお仕事は差別されることがあります。 映画に登場するご一家も被差別部落に暮らし、時に周りから「あの地域は怖い」というような、偏見に基づく心ない言葉に悔しい思いをしながらも、だんじりや地域のお祭りなどを大切に生きていらっしゃる。 太鼓の皮も牛をなめして作っています。 映画の中に、育てている牛に声をかけながら丁寧にブラッシングしている場面があって、「大切に育てる分だけ、食肉にするときは辛い気持ちもあるだろうな」とまず思いました。 いつか食肉にする想定をしているかどうかの違いこそあれ、数年間大切に飼育して生まれる情は、私がうちの猫に対して持つのと変わらないのではないかと思うから。 でも、私はふだんそういう場面に立ち会うことなく肉を食べていて、今後も肉を食べない選択はできない。 辛いところだけひとまかせにするところからは脱しないといけないのではないか。 どうしたらいいんだろう… そう考えていたところでちょうど、映画の中では北出さんが、「私たちは牛を[殺す]とは言わないんだ。牛を[割る]と表現するのだけれど、殺すんじゃなくて、命をいただいて私たちの中で生かすんだという思いでいるからだ。」とおっしゃった。 それを聞いて、ああそうか、と思いました。雑に扱わず、丁寧に、敬意をもって牛を割る。そう思いながら映像を見ると、食肉にしていく作業も、その肉も、とても美しい。 そして、ひとつ思い出したことがありました。 東日本大震災の被災動物の様子を追った映画「犬と猫と人間と2」に、被曝した牛を安楽死させるか生かすか、という話が出てきます。 食肉になるためいずれ死ぬ運命だった牛を生かすのはなぜか?という意見もある。 私は、「いずれ死ぬ命だったのに」という意見には違和感を持ちながらも、今までその違和感をどう整理して言葉にしたら良いか分からなかったのです。 だけど今回、牛を割る人の気持ちや、その様子を見て、整理できたように思います。 食べられる牛は無駄に殺されるわけじゃない。肉も、内臓も、皮も、大切に生かされる。 だけど被曝した牛の安楽死は、「殺される」なんだと思う。それはやっぱり違うのだ、と。 改めて、福島で家畜を飼育していた人の気持ちを思いました。 そしてこれから、ご飯を食べる時、そこでいただく命をよく噛みしめるようにしたいなと思った、良い映画でした。 ある精肉店のはなし ホームページ