差別・偏見に対する絶望感
娘の真心(まこ)が障害をもっているのではなく、社会側が障害をつくっている。
10cmくらいの段差があると、真心の電動車椅子では乗り越えられないので、前に進めない
→解決方法:スロープの取り付け、段差をならすetc
着替え、トイレ、食事など生活動作はほぼ100%介助が必要
→解決方法:ケアロボットの普及、有効な機器の活用etc
発語が少ない&不明瞭なので、慣れない人とのコミュニケーションが難しいときがある
※siri、アレクサ系も聞き取ってくれないw
→解決方法:脳内で思っていることを言葉にして出力する機器の開発(現代の技術でできそうだけども、勝手にいってるだけw)
まこちゃん、障害があるの、かわいそう
障害があるって、不幸
とか言うなら、
解決方法を実現させてくれ!
(同情するなら金をくれ、と言った家なき子の気持ち今なら分かる気がするw)
かわいそう、不幸と言われたところで、
なーんも発展しないのです。
『障害者におもいやりを』
とか
『障害者を見かけたら助けてあげよう』
みたいなフレーズみる度に思う。
今、何らかのお困りごとがある人=障害者
だとしたら、
世の中の全ての人が当てはまりますよね?(笑)
・道に迷ってる人
・酔ってふらふら歩いてホームに落ちそうになってる人
・重たいスーツケースを持っているのに階段しかなくて途方にくれてる人
・ベビーカー使用しているのにエスカレーターしかなくて移動困難な人
などなど、誰でもお困りごとは日常の中で経験してるはずです。
たしかに、真心はお困りごとにぶつかる頻度が高い方ですが、シンプルに、
お困りごとができたら、解決方法を探す
以上。
とはいえ、わたしも便宜上、世の中との共通言語として『障害児者』と使うことがあるけれど、
例えば共通言語が、
『生活動作でお困りごとが多い人/少ない人』
にしたら、
障害児者=困ってる人、かわいそう、不幸
という偏見は無くなるのだろうか…?
いろいろ仮説を考えてみたけど、ぶっちゃけ面倒くさくなってきたので(笑)、
障害児者への差別や偏見をなくすために、私自身が痛感している解決方法は…
助けてほしいときは、自ら言う。それ以外の自分でできることは、当然自分でしたい。
自律とはこういうことだな、と思う。
自律してる子は、周りに友だちがたくさんできるのだね!
わたしも、真心が自律できるように、フラットに接していこう、と自戒の意を込めて文章を締めたいと思います(笑)
次回は、
選択肢の少なさに絶望感
について書きます!
先に伝えちゃいますが、わたしの活動は、
加藤さくらのmy Pick