763.旅行なら 思い出一杯 持ち帰る 芭蕉の場合 旅 即 仕事

 

 「行く春や 鳥啼なき魚の 目は

 「夏草や 兵(つわもの)どもが 夢のあと」

 「五月雨の 降り残してや 光堂」

 「閑さや岩にしみ入るの声」

 「荒海や 佐渡によこたふ 天の河

 

 5月16日は1988年に日本旅のペンクラブが定めた「の日」だ。何故なのか。松尾芭蕉が『奥の細道』へと向かったのが335年前(1689年)のこの日(元禄2年3月27日)だったからだ1

 何が切掛けだったのか。芭蕉が崇拝する西行法師の500回忌を記念し、東北各地に点在する歌枕や古跡を訪ねようとしたかららしい。150日ほどで約2,400㎞を踏破した。

 それで筆者が思い出したのが冒頭の5句と西行の「願わくは 花🌸の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」の歌。

 壮大な旅に感嘆するが、庶民の筆者には費用💴が気になる。今の時代なら弟子の曽良が同行しているので、旅費は(素泊まり5,000円+食事代6,000円)x2人x150日=3,300,000円なる。最低でも400万円は必要だろうが、PayPayVISA💳が使えないので相当の小判を持ち歩く筈。芭蕉は45歳で曽良は40歳。男の2人連れでも追い剥ぎに狙われる可能性もある。

 心配性の筆者は芭蕉の経歴を読んだ2。三重県伊賀出身の彼は30代半ばで俳句の宗匠になっていた。江戸は勿論京都や滋賀の俳壇とも交流があり、旅立つ5年前には東海道から名古屋周辺を回り、それを『野ざらし紀行』として前年に出版していた。

 そう。各地の俳壇による歓待を想定すれば、芭蕉は『奥の細道』で多分1銭も使っていない。

 さて、芭蕉が生きた時代は徳川家光(3代)から綱吉(5代)の治世。戦国時代が終わり、徳川の幕藩体制が確立していく頃だ。文学平安時代の朝廷から、武家に移り、町人(庶民)にも親しまれるようになった。今日の歌舞伎の基礎ができたのもこの時期。

 昨今はおどろおどろしいニュースが世を駆け巡るが、僅か17文字で描く文学を慈しみたい。勿論、和歌も狂歌も。

 尚、『奥の細道』の結びの句と辞世(享年50)は以下の通り。

 

 「蛤の ふたみにわかれ 行く秋ぞ」

 

「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」

 

[出典1 2024年5月16日NHKラジオ第一『今日は何の日』]

[出典2 Wikipedia 松尾芭蕉(参照 2024-5-16)]