人は何語で考えるのか | 最適性理論(音のストリーム)で英語を覚える

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木下和好氏が次のように言っています。

 

「腹が空いた。何を食べようか?」と思うとき、「ハラガスイタ ナニヲタベヨウカ」という日本語の音の並び(われわれはそれを日本語と呼んでいる)が完成したときに初めてそのように思うことが可能になるのであろうか。音声を口に出さないまでも、少なくとも脳内で「ハラガスイタ ナニヲタベヨウカ」という音声を作り出さなければ、その内容を思うことができないのだろうか。アメリカ人の場合は ”I got hungry. What shall I eat?” という英語の音声が出来上がって初めてそう思うことができるのであろうか。

 

「日本人は日本語で考え、アメリカ人は英語で考える」という前提に立つと、日本人は「ハラガスイタ ナニヲタベヨウカ」という音の組み合わせが出来上がった時点で「腹が空いた。何を食べようか?」という思いが完成し、アメリカ人は ”I got hungry. What shall I eat?” という音の組み合わせができたときに ”I got hungry. What shall I eat?” という考えがまとまることになる。でなければ、日本語で考えたり英語で考えたりしたことにはならない。モノリンガル、すなわち1言語だけを話す人たちのほとんどは、その発想の矛盾に気付かない。

 

でも、モノリンガルの人であっても、日本語の音声が完成する前にその内容を考えることができることは理解できるはずだ。例えば「これは、おいしくない」という表現は、東北では「こいづ、うめぐねー」と発音されることが多い。では、「これは、おいしくない」という発音で思う場合と、「こいづ、うめぐねー」という発音で思う場合では、思う内容が異なるだろうか。

 

そんなことはない。どちらの発音でも同じ内容を考えていることは明白である。なぜなら思うのが先で、思った後に「これは、おいしくない」という音声で表現されるか、「こいづ、うめぐねー」という音声で表現されるかが決まるからである。人は「これは、おいしくない」という発音で考えるのでもなく、「こいづ、うめぐねー」という発音で考えるわけでもない。すなわち、東京の人は東京の言葉で考え、東北の人は東北弁で考えるわけではない。


人は音の並び(われわれはこれを言語と呼んでいる)を決定する前に思ったり考えたりし、考えた後それを音の並びに変換するという順序を踏む。すなわち、人は「~語」という言語を使う前に、全人類共通の言語(中枢言語)で考え、考えた後にそれを音声言語で表現することになる。この理解を誤ると、英語の学習法を誤る危険性がある。

 

思いは一瞬・話すには時間が必要
人は日本語で思ったり考えたりするのでもなく、英語で思ったり考えたりするのでもない。もし日本語とか英語で思ったり考えたりするなら、思ったり考えたりするのに要する時間は、日本語で話したり英語で話すときと同じ長さになるはずだ。ある思いを話すのに6分を要するなら、その思いを脳内に描くのにも6分かかることになる。


もし日本人が日本語でしか考えることができなければ、あるいはアメリカ人が英語でしか考えることができなければ、考える時間が長すぎて、途中で何を考えているか分からなくなったり、忘れてしまう危険性が高まる。仮に通常の3倍の速度で話すことができたとしても、すなわち日本文や英文を通常の3分の1の時間で言うことができても、通常速度で話すのに6分かかる内容を考えるのに、2分間も考え続けなければならない。でも、実際はそういうことにはならない。

 

実は、人が何かを思ったり考えたりする時間は、言葉で表現する時間よりはるかに短い。なぜなら、人は「~語」で思ったり考えたりするわけではないからだ。
警察訓練学校で注意力を試すために面白い実験が行われる様子を、テレビで見たことがある。それは前予告なしに教室に強盗を装った人たちが突然現れ、ほんの数秒だけ事件らしきことを起こし、すぐに消え去るというものだった。学生たちはその強盗事件の詳細を紙に書き記さなければならなかった。驚いたことに、各学生は事件の報告書を読み上げるのに、目撃した時間の何倍もの時間をかける必要があった。


もし彼らがほんの数秒の出来事を把握するのに、日本語や英語のような音声言語に頼っていたなら、すなわち、事件の様子をブツブツ言葉で表現するような形で見ていたならば、数秒で表現できる内容しか把握できなかったはずである。でも、彼らは事件を把握するのに、音声言語ではなく中枢言語を使っていたので、ほんの数秒であっても脳内には膨大な情報がインプットされ、報告書もかなり長いものになったのだ。

 

この実験の場合は、視覚を通しての情報のインプットだが、人が思ったり考えたりする行為も、脳の働きとしては大きな違いはない。何かを考えるとき、時間を要する音声言語を必要としないので、非常に短い時間で多くのことを考えることが可能となる。
相撲中継のアナウンサーが、ほんの数秒の出来事を口で表現するのに苦労するのも、何が起こったかの詳細を把握しているにもかかわらず、音声言語にするのに何倍もの時間がかかってしまうからだ。その結果、勝負がついた後も説明を続けることが多い。

 

「ひらめき」と呼ばれているものがあるが、一瞬のうちに何かの思いが脳に浮かび上がることを意味する。この「ひらめき」は何か特別なものではない。「ひらめき」と「思い・考え」に大差はない。人は常に所要時間をほとんど要さない中枢言語で考えており、今まで思いつかなかった有益な思いが湧き上がったとき、それを「ひらめき」と呼ぶ。

同時通訳が可能なのは、訳すべき内容、すなわちイメージのインプットは瞬間的だからである。厳密に言うと、イメージの把握は瞬間、瞬間の繰り返しなので、同時通訳のために十分な時間を確保することが可能となる。もしイメージの把握に、耳から入って来る音声表現と同じ時間を要するとしたら、脳はイメージの把握だけに全時間と全神経を使うことになるので、別の言語で言い直す余裕がなくなり、同時通訳はほぼ不可能となる。

 

口では表現できない思い
人が話すとき、その順序が「思い→音声言語」であるので、最初に音声言語に関係なく「思い」が湧き上がり、それが日本語とか英語の音声言語で表現される。でも、その思いをすぐに「音声言語」に変換することができないこともある。言葉で具体的に表現できない場合、とりあえず「ワーッ!」とか、”Oh, my God !” とかいう音声を出したりする。

 

でも、「ワーッ!」とか、”Oh, my God !” という音声は、具体的な内容を表す「言葉」とは違うので、誰かが突然「ワーッ!」とか、”Oh, my God !” とか叫んでも、それを聞いた人の脳内には何のイメージも湧かない。美しい景色を見たり感情が大きく動いたとき、「ワーッ!」とか、”Oh, my God !” と言えたとしても、とっさに具体的な「言葉」で言い表せないことが多い。これも人が「思い→音声言語」の順序で考え話すことの証明となる。

 

もし人が日本語や英語でしか考えることができないなら、言葉で表現できないことを思ったり感じたりすることは不可能になる。実際のところ、人の思いや考えは、音声表現よりはるかに複雑で膨大である。人はその思いのすべてを口で表現することはできないし、音声表現が思いと一致しているとは限らない。それで言葉を一つ一つ選びながら話さなければならない場合も出てくる。

 

思いは流動的、音声言語は具体的で論理的

人は全人類共通の中枢言語で思ったり考えたりするが、それは瞬間的であるが故に流動的でもある。溶けやすいバターのようで、次の瞬間その思いの形が崩れたり、論理的でなくなる可能性がある。思い浮かぶ内容が印象深ければ、そのイメージは長く保存されるかもしれないが、単なる思いつきの場合、次のステップを踏まないと、そのイメージが消滅し記憶にも残らない。次のステップとは、その思いを音声に置き換えることを意味する。


人は脳内で思った内容を音声言語(われわれはこれを言語と呼んでいる)に変換して話すわけだが、イメージが音声言語に変換されると、その内容は具体的で論理的なものとして固定し、長く記憶に留めることが可能になり、意思伝達媒体の役割を果たすことができる。また、音声言語は書き言葉に変換し、長期間保存することが可能になる。

 

英語を覚えることと英語で考えることは同じではない
人は日本語で考えたり英語で考えたりするわけではないので、「英語で考える→英語を覚える」という図式にはならない。英語を覚えるとは、思いや考え(その時点ではまだ英語でも日本語でもない)を英語音声に変換する能力を養うことを意味する。いくら英語で考えようとしても、イメージ(思い)と英語音声が結合していなければ、何も起こらない。なぜなら、人は考えた後にそれを英語音声にするからだ。

英語で考えない限り英語を話すことができるようにはならないないという理由で、日本語使用を禁止するという考え方があるが、日本語を禁止しても英語が上手になる保証はない。なぜなら、人は考えてから、それを英語とか日本語で表現するからだ。英語音声を真似するだけでは音声と意味(イメージ)との結合が起こらないので、何年英語を学んでも話せるようにはならない。
英語の能力を高めたければ、ひたすら思い(イメージ)を意識しながら、それに相応する英語音声を口から発する練習が必須となる。

 

人は全人類共通の中枢言語で思ったり考えたりすると言っていますが、思考言語で考える方がより自然だと思います。