40年前の長崎で一番印象に残っていた如己堂に行きました。平和公園を出て数分、40年前の記憶と地図を見比べながら。40年前は、記憶していたことが正しければ、今回と逆コースで浦上天主堂から如己堂に移動し平和公園に向かったのではと思います。長崎の原爆に関わることを思い浮かべたときに、最初に如己堂、永井隆博士が頭に浮かんできます。
如己堂は、「長崎の鐘」、「この子を残して」などの著者で知られる永井隆博士の病室兼書斎だった場所です。
「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から「如己堂」と命名しました。自らも被爆しながら、被爆者の救護に尽力しました。
隣接の長崎市永井隆記念館では原稿など遺品を展示されていました。館内には永井博士の著書をモチーフにサトウハチロー作詞、古関裕而作曲の『長崎の鐘』が流れていました。
記念館は1999年に全面改築されていて、以前のイメージとは違いましたが、如己堂や展示のパネルや資料から、改めて博士の足跡を知ることができました。








永井隆博士について(長崎市ウェブサイトより)
医学博士であり、厚い信仰心を持つカトリック信徒だった永井隆博士は、長年取り組んでいた放射線の影響により、被爆前にすでに白血病を患い、余命3年の宣告を受けていたという。原爆によって愛妻を亡くし、自分もまた被爆による白血病と戦いながら死の直前まで原子病の研究と発表を続けた博士。寝たきりとなってからは、如己堂(にょこどう)と名付けた2畳一間の部屋に2人の子どもと住み、そこで多数の著書を執筆した。
そして、余命3年と宣告されてから6年、昭和26年に永眠の時を迎えた。死後、解剖執刀医は、「死を賭して精進した結果、死期がのびた」と発表したのだそうだ。
病と戦いながらも力の限り発信し続けた博士の願い、祈りとはどんなものだったのだろう? 如己堂に隣接する平成12年に全面改築した永井隆記念館には博士の遺品、書画のほか関係写真などが多く展示されている。年間を通し全国から15万人以上の来場者が訪れ、ピーク時には修学旅行生が1日で4,500人を越えることもあるという。展示を見た多くの人々が博士のメッセージを受け止めこの記念館を後にする。そんな全国の学生の平和学習の発信基地として永井隆博士の遺志を発信し続ける永井隆記念館へ……探検隊いざ潜入!