石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。国の特別史跡に指定されています。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていましたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されています。墳丘は現在失われていますが、下部は方形で、20-50cm大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていました。墳丘の周りに幅5.9-8.4mの空堀がめぐり、幅約7.0mの外堤が設けられていました。外堤を復元すれば一辺約80mで、高さは約1.2mです。封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されています。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるといわれています。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みです。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5mの規模を有し、石室内部には排水施設がありました。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されています。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3km、多武峰のふもとから運ばれました。石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後で、石棺の欠片等が発見されるに留まりました。羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出ました。外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていました。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたって周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられています。1952年3月29日、国の特別史跡に指定されました。被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力です。
元は土を盛りあげて作った墳丘で覆われていましたが、その土が失われ、巨大な石を用いた横穴式石室が露出しています。埋葬者としては蘇我馬子が有力視されています。墳丘は現在失われていますが、下部は方形で、20-50cm大の花崗岩の貼石を約30度の傾斜で積み並べられていました。墳丘の周りに幅5.9-8.4mの空堀がめぐり、幅約7.0mの外堤が設けられていました。外堤を復元すれば一辺約80mで、高さは約1.2mです。封土(盛土)の上部が剥がされているため、その墳形は明確ではなく、2段積の方墳とも上円下方墳とも、あるいは、下方八角墳とも推測されています。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるといわれています。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、西南方向に開口している。花崗岩で作られた石組みです。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5mの規模を有し、石室内部には排水施設がありました。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されています。石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3km、多武峰のふもとから運ばれました。石室はすでにほとんどの埋葬品が盗掘に遭った後で、石棺の欠片等が発見されるに留まりました。羨道部と外堤から土師器と須恵器や銅の金具などが見つかり、時代が下る宋銭や寛永通宝も出ました。外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていました。しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたって周辺にあった古墳を削平し、土などを移したものと考えられています。1952年3月29日、国の特別史跡に指定されました。被葬者は蘇我馬子であったとする説が有力です。
『日本書紀』の推古天皇34年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る」とあり、大臣は、蘇我馬子を指しています。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰ではなかったかとする説もあります。 また、三重中京大学名誉教授の上野利三は石室の壁に「馬子墓」の文字が刻まれており、肉眼でも確認可能との説を主張しています。ただし、異説があり、奈良大学の水野正好は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱えています。