朝護孫子寺の歴史1

910年には中興である命蓮(みょうれん)上人によって伽藍が整備されました。また、病であった醍醐天皇を命蓮が治癒したことから天皇によって「朝廟安穏・守護国土・子孫長久」の祈願寺とされ、「朝護孫子寺」の勅号を贈られました。

寺に伝わる国宝『信貴山縁起絵巻』は、平安時代後期、12世紀の成立とされ、日本の絵巻物の代表作とされています。この絵巻は通常の社寺縁起絵とは異なって、朝護孫子寺の創建の経緯等については何も述べておらず、信貴山で修行していた聖(ひじり)の命蓮の奇跡譚が中心主題となっています。絵巻の中巻では延喜の帝(醍醐天皇)の病を命蓮が法力で治したという話が語られています。『信貴山縁起絵巻』の詞書とほぼ同様の説話が『宇治拾遺物語』にあり、『今昔物語』にも信貴山寺の草創に関する説話が収録されています(聖の名は『宇治拾遺物語』には「もうれん」、『今昔物語』には「明練」とある)。

平安時代末期に成立した歴史書『扶桑略記』の930年8月19日条には、「河内国志貴山寺住」の「沙弥命蓮」が醍醐天皇の病気平癒のため祈祷を行ったことが見えます。なお、当時醍醐天皇の病気は相当進んでいたようで、1か月後の9月29日に死去しており、この点は説話と異なっています。なお、信貴山は大和国(奈良県)と河内国(大阪府)の境に位置し、朝護孫子寺の住所は奈良県ですが、『宇治拾遺物語』『扶桑略記』には「河内の信貴(志貴)」と表現されています。>以上のことから、醍醐天皇の時代、平安時代中期の10世紀頃には信貴山に毘沙門天を祀る庵があり、修行僧が住んでいたことは首肯されます。


三宝堂 
中尊に悪魔をこらしめる為にこわい顔をして、人々を守る明王「不動明王」を安置。右にすべての人々を救う西方極楽浄土の仏様「阿弥陀如来」、左に仏教の守護神かまどの神様「三宝荒神」を祀ってあります。殊に三宝荒神は、火難水難除けの台所の神様「三宝(さんぼう)さん」として親しまれお祀りされています。 

本堂
信貴山は毘沙門天王が日本で最初に御出現になった霊地で、毘沙門天王信仰の総本山です。本尊となる毘沙門天王像は左に禅膩師童子像、右に吉祥天像とともに内陣の正面に安置されています。堅固な舞台からの眺めは素晴らしく、ご来光を拝むことができます。





戒壇巡り 
約900年の昔、覚鑁上人(新義真言宗の開祖)が、信貴山に籠って修行されたとき、毘沙門天王より授かった「如意宝珠」を納め、本堂の地下にお祀りしています。真っ暗な回廊を進み、宝珠を納める錠前に触れると心願成就のご利益が大変あらたかです。