喜光寺(きこうじ)は、奈良市菅原町にある法相宗の別格本山の寺院で山号は清涼山、本尊は阿弥陀如来です。

この一帯は菅原といい、菅原氏の治領であったことから「菅原寺」とも呼ばれています。奈良時代の僧・行基が没した地とされています。蓮のお寺とも呼ばれています。
奈良時代に架橋、土木工事などの社会事業に携わり、東大寺大仏造立にも貢献した僧・行基が創建したと伝わります。『行基年譜』(1175年成立)によれば、菅原寺(喜光寺)は721年、寺史乙丸なる人物が自らの住居である菅原の地を行基に寄進し、722年に行基がこれを寺としたもので、行基建立の四十九院の一つであるとされています。寺地は平城京の右京三条三坊の九ノ坪、十ノ坪、十四ノ坪、十五ノ坪、十六ノ坪の計5坪を占めていました。なお、現・喜光寺本堂の位置は、右京三条三坊の十五ノ坪にあたります。『大僧正舎利瓶記』によれば、行基は749年2月2日に喜光寺東南院において82歳で死去したといわれています。なお、行基の墓は喜光寺から直線距離で7キロ離れた生駒市有里の竹林寺にあります。前出の『大僧正舎利瓶記』は、行基墓から出土した銅筒に記されていたものです。
1969年に境内の発掘調査が行われ、現・喜光寺本堂は、奈良時代の創建本堂の跡に建てられていることが確認されました。創建金堂の基壇は東西が28メートル、南北が21メートルの規模でした。そこから南に42メートル離れた場所に南大門跡とみられる建物跡がありましたが、礎石は残されていませんでした。
一方、「菅原寺記文遺戒状」という別の史料によれば、この寺は715年、元明天皇の勅願により建てられたものといわれています。創建当初は菅原道真の生誕地と伝わる菅原の里にあることから菅原寺と呼ばれていました。伝承によれば、748年に聖武天皇が参詣した際、この寺の本尊より不思議な光明が放たれ、これを見た天皇が喜んで「歓喜の光の寺である」ということから「菅原寺」を改めて「喜光寺」の名を賜ったといわれています。『続日本紀』によれば、782年、この地に住んでいた土師氏が桓武天皇から菅原姓を賜ったといわれています。
中世には菅原神社(菅原天満宮)を鎮守社とし、興福寺の子院・一乗院の末寺となりました。1275年には興福寺一乗院門跡信昭が興正菩薩叡尊に喜光寺の復興を依頼すると同時に、喜光寺は一乗院門跡の隠棲地に定められました。喜光寺は叡尊と弟子の性海により復興され、1283年には事業が完成しました。
戦国時代の1499年12月、大和国に攻め込んできた細川政元の家臣赤沢朝経によって焼き討ちされてしまい本堂を始め伽藍のほとんどが焼失しましたが、1544年に本堂が再建されて復興がなされました。しかし、元亀年間(1570~1573年)に再び兵火にあって本堂以外の堂宇を焼失しました。
江戸時代の中期には貫光戒月や寂照といった僧によって本堂が修理されました。
明治時代には神仏分離によって鎮守社の菅原天満宮が独立し、一乗院も廃寺となったことから薬師寺の末寺となりました。現在は薬師寺が属する法相宗唯一の別格本山です。
1992年からは「いろは歌」を書写する「いろは写経」が行われています。
2019年1月28日、奈良大学(奈良市)は、2005年に額安寺から購入した木造四天王像のうち広目天像と多聞天像の2体を2014年から解体修理する過程で、計7カ所から「行基大菩薩御作菅原寺」などと記された墨書銘文が見つかったと発表しました。四天王像は明治の神仏分離を受けて奈良時代の僧の行基が最期を迎えた菅原寺(喜光寺)から額安寺に移されたとする伝承があったことから、同大は「説が裏付けられた」としています。これを受けて2019年5月2日から9月2日まで「おかえり法要」として本堂で奈良大所蔵の四天王像が特別公開されました。
初めて訪れたのは30年くらい前でした。写真は2010年1月のときのものです。