毘沙門堂(びしゃもんどう)は、京都市山科区にある天台宗の寺院で、山号は護法山、本尊は毘沙門天。正式名は護法山安国院出雲寺。天台宗京都五門跡の一つで、山科毘沙門堂、毘沙門堂門跡とも呼ばれています。
寺伝によれば、毘沙門堂の前身の出雲寺は文武天皇の勅願により、703年に行基が開いたとされています。
平親範置文(『洞院部類記』)という史料によると、1195年、平親範は平等寺、尊重寺、護法寺という平家ゆかりの3つの寺院を統合し、出雲路に五間堂3棟を建てたと記されています(「五間堂」とは間口の柱間が5つある仏堂の意)。こうしてできた寺は出雲寺の寺籍を継ぎ、1195年に塔ノ垣にあった旧出雲寺の地に護法山出雲寺として再興され、最澄(伝教大師)自刻の毘沙門天像を本尊としました。
毘沙門堂の前身寺院である出雲寺は、京都市上京区にある相国寺の北、上御霊神社の付近にあったと推定されます。付近からは奈良時代前期にさかのぼる古瓦が出土しており、行基の開基であるかどうかは別としても、この付近に平安京遷都以前にさかのぼる寺院があったことがわかります。また、一帯には現在も「出雲路」の地名が残されており、この出雲寺は平安時代末期には荒廃していたことが『今昔物語集』の記述などから伺われます。また、中世には出雲寺は桜の名所として知られ、藤原定家の日記『明月記』などでも登場します。
室町時代の1467年、応仁の乱によって焼失し、1469年には再建されたものの、1571年に再び焼失しました。
江戸時代初頭の慶長年間(1596~1615年)に、天台宗の僧で徳川家康の側近であった天海によって復興が開始され、江戸幕府は山科の安祥寺(9世紀創建の真言宗寺院)の寺領の一部を出雲寺に与え、現在地に移転・復興されました。天海没後はその弟子の公海が引き継ぎ、1665年に完成しました。また、毘沙門天を祀ることから出雲寺は毘沙門堂と呼ばれるようになりました。
後西天皇皇子の公弁法親王がこの寺で受戒し、晩年には毘沙門堂に隠棲しました。その際に、父の後西天皇の死後、御所から勅使門、霊殿、宸殿を拝領し毘沙門堂に移築しました。
以後、門跡寺院(皇族・貴族が住持を務める格式の高い寺院の称)となり、天台宗京都五門跡の一つ「毘沙門堂門跡」と称されるようになりました。五門跡とは、妙法院門跡・三千院門跡・青蓮院門跡・曼殊院門跡・毘沙門堂門跡の五か寺を指します。
こちらには何度か行ったことがあります。写真は2010年の紅葉の時期のものです。京都市街とはまた別の雰囲気を醸し出していました。