宝積寺(ほうしゃくじ)は、乙訓郡大山崎町大山崎にある真言宗智山派の寺院で、山号は天王山(古くは補陀洛山)、本尊は十一面観音です。聖武天皇が夢で竜神から授けられたという「打出」と「小槌」(打出と小槌は別のもの)を祀ることから「宝寺」(たからでら)の別名があり、銭原山宝寺、大黒天宝寺ともいいます。宝積寺は、山城国(現・京都府)と摂津国(現・大阪府)の境に位置し、古くから交通・軍事上の要地であった天王山(270m)の南側山腹にあります。寺伝では724年、聖武天皇の勅願により行基が建立したと伝えられ、しばらくして本尊・大黒天神を天竺(インド)から招いて祀ったといわれています。行基は奈良時代に架橋、灌漑などの社会事業を行い、多くの寺を建てた僧です。行基は725年、淀川に「山崎橋」(山崎 - 橋本間)を架けています。また、『行基年譜』によれば、行基は731年、乙訓郡山崎に山崎橋を管理する橋寺として「山崎院」を建立しています。天王山の南側山麓に位置する大山崎町大山崎上ノ田の遺跡が「山崎院」跡に比定されており、ここからは日本でも最古級の壁画断片などが出土しています。以上のことや、付近には746年に行基が開いたという西観音寺(現・椎尾神社)があったことからも、天王山周辺は行基にゆかりの深い地であることは確かで、宝積寺は「山崎院」の後身と考える説もあります。平安時代の寺史はあまり明らかではありませんが、長徳年間(995~999年)、寂昭が中興したといわれています。寂昭は俗名を大江定基といい、『今昔物語集』所収の説話で知られています。それによれば、彼は三河守として任国に赴任していた時に最愛の女性を亡くし、世をはかなんで出家したといいます。11世紀末から12世紀初めの成立と思われる『続本朝往生伝』(大江匡房著)には早くも当寺の通称である「宝寺」の名が見られます。また、藤原定家の日記『明月記』には1202年に大江匡房が宝積寺を訪れたことが記されています。1232年、宝積寺は火災で焼失しており、現存する仏像等はこれ以降のものになります。以降復興が進められ、南北朝時代には塔頭が64坊もあったと伝えられています。1388年には後小松天皇の勅願所になっています。1582年、天王山が羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの舞台となり、その際宝積寺には秀吉の本陣が置かれました。山崎の戦いの後、秀吉は天王山にあった城跡を大改築して山崎城を築城すると、宝積寺をも取り込みました。このため城は「宝寺城」とも呼ばれました。山崎城は秀吉が大坂城を築くまでその居城とされました。この山崎の地には西国街道と山崎宿があり、東から順に観音寺(山崎聖天)、宝積寺、西観音寺(現・椎尾神社)が並び立ち、にぎやかな場所でした。1864年には禁門の変で尊皇攘夷派の真木保臣を始めとする十七烈士らの陣地が置かれたために幕府軍の攻撃を受け、境内が荒廃しました。本堂左横にある小槌宮には大黒天が奉られ、「打出」と「小槌」で参詣者に福徳を授けています。一寸法師の説話も宝積寺から生まれたとの説もあります。また、打出の小槌は、七福神の一神とされる福の神大黒天が所持している宝物で、振れば出世、福徳、財徳を授けてくれると言われています。「招福こづち」のお守りは、孟宗竹を使用し、繊維の美しさを生かした特殊な染色が施されているそうです。また、本堂の脇には秀吉が腰掛けて天下統一について考えたと伝えられる出世石があり、この出世石に腰掛けると出世するという言い伝えもあります。重要文化財の三重の塔があり、本堂及び山門は京都府の登録文化財に指定されています。