興聖寺(こうしょうじ)は、宇治市宇治山田にある曹洞宗の寺院で、山号は仏徳山(ぶっとくさん)、本尊は釈迦三尊、日本曹洞宗最初の寺院で、道元が興聖宝林寺を建立したことに始まります。参道は「琴坂」と称し、紅葉の名所として人気を博しています。「春岸の山吹」「興聖の晩鐘」は宇治十二景に含まれています。
1227年に道元は宋から帰国すると、しばらく建仁寺に身を寄せました。その後、京都市深草の安養院に閑居しました。安養院はかつて深草にあった藤原氏ゆかりの大寺院極楽寺の跡で、現在の京都市伏見区深草宝塔寺山町付近にあったと推定されています。1233年、道元は深草に興聖寺を開創、『永平広録』によれば1236年に開堂式が行われ、観音導利院興聖宝林禅寺と号しました。その前年の1235年の「宇治観音導利院僧堂建立勧進之疏」(『建撕記』所収)によると、当時の興聖寺には仏堂はあったが法堂と僧堂はまだなく、道元は僧堂建立のための勧進を呼びかけていました。
興聖寺は比叡山延暦寺の弾圧を受け、1243年に道元が越前国に下向して以降荒廃し、住持4代で廃絶しました。
江戸時代の1648年、淀藩主の永井尚政が万安英種を招聘して第5世住持とし、朝日茶園のあった現在地に再興しました。1664年に畿内の触頭寺院となり、1747年には永平寺の末寺となりました。
法堂(本堂、宇治市指定有形文化財)は伏見城から移築され、改築されました。関ヶ原の戦い直前の西軍による伏見城攻めの際に東軍の鳥居元忠率いる守備兵は敗北し自害しました。その血が付いたままの床板を天井板として使っているため、血天井と呼ばれています。
勅額「興聖寶林禅寺」は四条天皇の筆です。
この寺については血天井であることを知り、2009年の夏に初めて行きました。写真は2010年の紅葉の時期の写真です。