吉田神社(よしだじんじゃ)は、左京区吉田神楽岡町にある神社です。吉田山に鎮座し、祭神は次の4柱(「春日神」と総称)、建御賀豆智命(たけみかづちのみこと、武甕槌命)、伊波比主命(いわいぬしのみこと、経津主命)、天之子八根命(あまのこやねのみこと、天児屋根命)、比売神(ひめのかみ)です。(漢字は春日大社での表記)
859年、藤原山蔭が一門の氏神として奈良の春日大社四座の神を勧請したことに始まります。後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになりました。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田家)が神職を相伝するようになり、室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として1484年、境内に末社斎場所大元宮を建立しました。
江戸時代に入ると社領は590石でしたが、1665年、江戸幕府が発布した諸社禰宜神主法度により、吉田家は全国の神社の神職の任免権(神道裁許状)などを与えられ、幕末に至るまで神道界に大きな権勢を誇りました。
しかし、明治になると神道裁許状の特権は剝奪され、国家神道によって神社界は伊勢神宮がその中心となり、吉田神社は、ごく普通の神社となってしまいました。
※節分大祭(2月2日 - 4日)
吉田神社の節分祭は室町時代から行われている京洛の一大行事で、主な祭儀としては疫神祭、追儺式、火炉祭があります。
・疫神祭は疫神を祭り、「荒振る事なく山川の清き地に鎮まります」ことを祈ります。
・追儺式は俗に「鬼やらい」と言われており、疫鬼を追い払い、人々の幸福と平和な生活を願う。この追儺式は、平安時代に宮中で行われていた「追儺の義」を、神楽岡町の住民らが1928年に復活させたものです。
・火炉祭は二ノ鳥居前の八角形の火炉で参拝者が持参した古い神札を焼き上げます。

20年くらい前の節分の大祭に、夜訪れたときは、露店も立ち並び、多くの参拝客で賑わっていました。写真は2011年の昼の明るい時間に行ったのですが、最初の印象より広い神社だったことに驚きました。