本能寺(ほんのうじ)は、法華宗本門流の大本山の寺院です。山号はなく、本尊は本門八品上行所伝の南無妙法蓮華経。本能寺の変の舞台として知られています。現在の寺院には、恵昇院、蓮承院、定性院、高俊院、本行院、源妙院、龍雲院七院の塔頭があります。本能寺は、当初は「本應寺」という寺号で、1415年に京都油小路高辻と五条坊門の間に、日隆によって創建されました。法華経の解釈をめぐる対立があり、一旦都を離れましたが1429年に戻り、千本極楽付近に本應寺を再建しました。1433年土地の寄進を受けて寺地を移し、寺号を「本能寺」と改めました。
その後、本能寺は法華経弘通の霊場として栄えました。応仁の乱後、京都復興に尽力した町衆は、大半が法華宗門徒で、本能寺は繁栄を極めました。戦国時代の1536年、天文法華の乱にて延暦寺の僧兵により焼き討ちされて堂宇はことごとく焼失、本能寺は一山まるごと堺の顕本寺に避難しました。その後、京都に戻り、日承上人が入寺して本能寺8世となりました。1545年、一町約120メートル四方(旧本能小学校の北、元本能寺町付近)に寺地を得て伽藍が造立され中興がなされ、子院も30余院を擁しました。
本能寺は、早くから種子島に布教していたため、鉄砲・火薬の入手につき戦国大名との関係が深い寺でした。織田信長は上洛中の宿所として妙覚寺を使用することが多く、本能寺を宿所とすることは3回と稀でしたが、1582年6月21日(旧暦6月2日)は息子の信忠が妙覚寺に逗留していたので、信長は本能寺を宿所としました。その本能寺を明智光秀の率いる軍勢が包囲し、襲われるという本能寺の変が起きその際の兵火で堂宇を焼失しました。
1591年、豊臣秀吉の命により、現在の寺域へと移築しました。伽藍の落成は1592年、現在の御池通と京都市役所を含む広大な敷地でした。1615年、江戸幕府から朱印地40石を与えられ、『本能寺末寺帳』によれば末寺92を数える大寺院になりました。
1788年の天明の大火で焼失しましたが1840年に日恩上人によって再建されました。しかし、1864年の禁門の変(蛤御門の変)により堂宇を焼失、塔頭の龍雲院のみ焼失を免れました。
その後明治の廃仏毀釈などの影響もあり本堂の再建は遅れ、寺地も御池通の拡幅整備で削られるなどし、本能寺の学問所である大亀谷檀林・隆閑寺(現・伏見区深草大亀谷にあった)の講堂を移築し、仮本堂としました。
1928年に本堂が完成し、七つの塔頭全ての本堂も再建されて現在に至ります。
旧地の元本能寺南町にあった京都市立本能小学校が1992年に廃校となり、その後発掘調査が行われ、本能寺の変当時の遺構が発見されて話題を呼びました。2007年マンション建設に伴う遺構調査では、本能寺の変において焼けたと思われる瓦や、当時の「能」という文字を表す字形がデザインされた丸瓦が、堀跡のヘドロの中から見つかりました。今回見落としてしまいましたが河原町通り側の門のところに掲げられる本能寺の「能」の字は、今は使われなくなった丸瓦にも使われた字形が使用されています。
先月、本能寺にお邪魔したときには、本堂の奥にある信長公廟所にお参りをしました。