誓願寺(せいがんじ)は667年、天智天皇の勅願により創建されました。もともとは奈良にありましたが、鎌倉初期に京都の一条小川(現在の上京区元誓願寺通小川西入る)に移転し、その後、1591年に豊臣秀吉の寺町整備で現在の三条寺町の地(新京極)に移されました。
清少納言、和泉式部、秀吉の側室・松の丸殿が帰依したことにより、女人往生の寺として名高く、また源信僧都はこの寺で善財講を修し、一遍上人も念仏賦算を行いました。
平安時代後期、法然上人が興福寺の蔵俊僧都よりこの寺を譲られて以降、浄土宗になり、現在は法然上人の高弟・西山上人善恵房證空の流れを汲む浄土宗西山深草派の総本山です。
「都名所図会(1780年刊行)」では、表門は寺町六角、北門は三条通りに面し、6500坪もの境内に塔頭寺院が18か寺もあり、また三重塔も記されています。その当時、三条~四条間の「寺町通り」には大小11か寺の寺院があり、盛り場が形成されていました。「誓願寺さんへ行こう」、「道場へ行こう」といえば、遊びを意味するほどに寺町界わいは洛中一賑わっていた場所だったようです。
ところが、幕末の「禁門の変(蛤御門の変)」であたりは焼け野原になり、明治維新で千年余続いた都が東京へ移り、すっかり寂れてしまいました。1872年、京都府は、京都の街の復興へのため、芝居小屋、見せ物小屋の集っていた誓願寺境内と四条寺町を上がった位置にあった金蓮寺境内(時宗・四条道場)を没収し、三条~四条間に新しい路を通し、一大歓楽街を作ろうとしました。これが現在の「新京極通り」です。このため誓願寺は、6500坪を有していた境内の内、4800余坪の土地を没収されることになりました。
京都の中心地に位置する誓願寺は戦乱等の影響を受けやすく、これまで10回もの火災に遭いました。現在の鉄筋コンクリートの本堂は1964年に建てられました。度重なる火事の悲劇は、かえって多くの人々を誓願寺に結縁させ、念仏の信仰を育んできました。
迷子のみちしるべは、山門の外、北側にある石柱です。正面に「迷子みちしるべ」、右側に「教しゆる方」、左側に「さがす方」と彫ってあり、その当時、落し物、迷子などの時、落した人は捜す方へ、拾った人は教える方へ、この石に紙に書いて張り出しました。 まだ警察のなかった江戸末期から明治中期、迷子が深刻な社会問題となり各地の社寺や盛り場に建てられたそうです。 
現在の本堂から少し離れた墓地に、山脇 東洋 (1705~1762) 夫妻の墓があります。江戸時代中期の医師で、1754年、日本で最初の観蔵(人体解剖)を行い、解剖記録『蔵志』を公刊。観蔵から一ヶ月後、解剖した屈嘉(くつか)(利剣夢覚信士)の慰霊祭が誓願寺で行われ、山脇社中の行った解屍者の供養碑が建立されました。その供養碑は2004年9月に再建され旧供養碑は修復、保存処理が行われ京都大学総合博物館に寄贈ました。20数年前にお墓を訪ねました。
戦国時代、誓願寺の第五十五世法主「安楽庵策伝上人」は、優れた説教師であるとともに、松永貞徳・小堀遠州らと親交を深めた文化人でもありました。策伝上人は、ともすれば小難しくなりがちな「お説教」に、ふとした笑い話を含め、人々に分かりやすく、また親しみやすくお話をされました。またそれらの話を集めた「醒睡笑 (せいすいしょう:八巻)」という書物を著し、それが後世、落語のネタ本となったことで「落語の祖」とも呼ばれ、それにより誓願寺も落語発祥の地としてめ知られています。10数年前の夏に、本堂で落語の会が催されているときにお邪魔しました。