醍醐寺(だいごじ)は、伏見区醍醐東大路町にある真言宗醍醐派の総本山となる寺院です。山号は醍醐山(深雪山とも)、本尊は薬師如来。上醍醐の准胝堂(じゅんていどう)は、本尊は准胝観世音菩薩。京都市街の南東に広がる醍醐山(笠取山)に200万坪以上の広大な境内を持ち、国宝や重要文化財を含む約15万点の寺宝を所蔵しています。1994年、「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されています。
平安時代初期の874年、空海(弘法大師)の孫弟子にあたる聖宝(理源大師)が准胝観音ならびに如意輪観音を笠取山頂上に迎えて開山し、聖宝は同山頂付近を「醍醐山」と命名しました。876年には聖宝によって准胝堂と如意輪堂が建立されました。
醍醐寺は山深い醍醐山頂上一帯(上醍醐)を中心に、多くの修験者の霊場として発展しました。後に醍醐天皇が醍醐寺を自らの祈願寺とすると共に手厚い庇護を与え、907年には醍醐天皇の御願により薬師堂が建立されました。その圧倒的な財力によって926年には醍醐天皇の御願により釈迦堂(金堂)が建立され、醍醐山麓の広大な平地に大伽藍「下醍醐」が成立し、発展しました。
その後、応仁の乱などで下醍醐は荒廃し、五重塔のみが残されるだけとなっていました。しかし、豊臣秀吉によって花見が醍醐寺で行われることに決まると、秀吉によって三宝院が再興されるなど、伽藍が復興され始め、1598年には「醍醐の花見」が盛大に行われました。
続いて、豊臣秀頼によって伽藍の整備が行われ、1600年には秀吉の代から行われていた金堂の移築工事が完成、1605年には西大門の再建、翌年には如意輪堂、開山堂、五大堂(現存せず)の再建が次々と行われました。明治期の廃仏毀釈の際、数多くの寺院が廃寺となったり、寺宝が流失したりする中で、醍醐寺はその寺宝を良く守り抜き、時代の荒波を切り抜けました。
1935年、霊宝館が開館しました。1939年8月、上醍醐を襲った山火事で准胝堂が焼失。1968年5月に再建されました。1995年1月、阪神・淡路大震災の影響で、五重塔・金堂などの漆喰が剥がれました。1997年9月、真如三昧耶堂が建立されました。
2008年8月24日、落雷による火災で上醍醐の准胝堂が全焼しました。
14年振りの公開となった今年の京の冬の旅では~密教美術一挙公開!水晶の中で輝く阿弥陀如来像~というサブテーマで、所蔵する彫刻・絵画・仏像などを見学、特に「水晶宝龕入り阿弥陀如来立像」は、2018年に初めて一般公開され、他に類を見ない珍しい仏像、鎌倉時代前期の仏師・快慶作と目される高さ約5.5㎝の阿弥陀如来像が、蓮の形の透明な水晶の中に納められていました。その他、平安時代に作られた如意輪観音坐像(重文)、平安時代の院政期に書かれた「紺紙金泥大般若波羅蜜多経」巻17(国宝)、藤原道長の曽孫にあたる座主・勝覚が記した「悉曇字母(しったんじぼ)」など醍醐寺が誇る貴重な文化財を見ることができました。大河ドラマにちなみ源氏物語ゆかりの展示もありました。
霊宝館の後は、西大門から五重塔、観音堂、金堂、三宝院という順に見学しました。上醍醐は、未知の領域です。
醍醐寺に初めて行ったときは、山科からバスでの移動でしたが、地下鉄が六地蔵まで延伸し、醍醐駅付近も様変わりし、訪問しやすくなりました。