妙光寺(みょうこうじ)は、宇多野にある臨済宗建仁寺派のお寺で、山号は正覚山(しょうかくざん)、本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花山院師継、開山は心地覚心(無本覚心/法燈国師)です。
京都十刹の寺格を有する禅刹で、本山・ 建仁寺が所有する「風神雷神図屏風」は、元々京都の豪商・打它公軌(うだきんのり/糸屋十右衛門)が妙光寺再興の記念に俵屋宗達に製作を依頼したものでしたが、妙光寺から建仁寺に住職が移動となりその時に移動されたものです。京焼色絵陶器の大家・野々村仁清のものと伝えられる墓があります。
開山の心地覚心は宋から味噌や醤油の技法を日本に伝えた人物といわれています。
1285年、当時の内大臣・花山院師継が長子の死を悼み、その山荘を寺院として心地覚心を開山に迎えて創建しました。寺号は亡長男忠季の法名・妙光に由来。堂内に中国渡来の印金裂(いんきんぎれ)を貼りめぐらせたという壮麗な印金堂(開山堂)を有し、花山院家の菩提寺として広大な寺域を誇りました。 持明院統・大覚寺統の天皇家の継承争いの際、花山院家は大覚寺派として後の南朝と結び付いたため、妙光寺は大覚寺統の亀山天皇、後醍醐天皇、後村上天皇の勅願寺となりました。南北朝時代、建武年間には後醍醐天皇が三種の神器と共に妙光寺に逃れていたこともありました。その後、応仁の乱によって廃れました。
1639年、建仁寺の三江紹益(さんこうしょうえき)が豪商・糸屋の打它公軌らの財政的支援を得て再興し、糸屋らの支援は続き、江戸時代を通して末寺塔頭を複数かかえる大寺院として栄えました。さらに糸屋から寺後背の山林が寄贈され巨大な境内を有する寺院となりました。

しかし幕末の変革期に木戸孝允ら勤王派の一挙点となっていたことから、ほとんどすべての塔頭が新撰組の焼き討ちを受け焼失してしまいました。幕末の住職が明治に入り暗殺されたことがさらに衰退に拍車をかけ廃寺寸前となり、寺域も大模な縮小を余儀なくされました。


山門は建仁寺の塔頭である建仁寺護国院(現・開山塔)に移築されました。
2004年より、本山建仁寺の修行僧達が中心となって寺域の整備が行われており、方丈の枯山水庭園、開山堂などが新たに建立されました。江戸時代からの庫裏と方丈(客殿)が残っていたため建仁寺より住職が派遣され、名刹再興に尽力しています。
2017年5月に春季京都文化財特別公開で訪問しました。