親しい相手にほど、自分自身を認められたい、自分の事を分かってくれている、理解し合えてると思っててん。

 

せやけど、『案外それって、大きな誤解かもしれん!』と、最近気づいてん。

 

「言葉にせんでも分かってるやん」「阿吽の呼吸で・・・・」ということも、もちろんあるし、そういう感じって、ホンマに心地いい人間関係やと思う。

せやけど、どうもそれは誤解やったんかもしれへん。

というより、『奇跡かもしれん』と思う。

 

せやけど、『誰も自分のこと分かってくれへん」とか、『誰も自分のことを認めてくれへん』と、拗ねたり、落ち込んだりという意味ではないねん。

『自分と誰かが分かり合えてる』という感覚自体が、実は、大きな誤解なような気がしてるねん。

せやから、自分のことを理解されなくても、落ち込んだり、傷ついたり、拗ねたりする必要なんて、実はないんかもしれへん!

 

『自分と誰かが分かり合えてる』という価値観でおるから、そうじゃない状況に直面したとき、『誰も分かってくれへん』とか、『自分なんて、あかん人間やねん』と、落ち込み、拗ねて、ふて寝せなあかんようになんねん。

 

偉そうに分かったようなことを書き綴ってる僕自身、間違いなく、そういうタイプやし・・・・・でも最近、頑張れば頑張るほど、しんどくなってくる自分自身に、むっちゃ違和感をおぼえるようになってきててん。

『他者に認められたくて頑張ってる僕って、僕自身やないやん』

『相手に認められる!なんてカッコイイこと言うてるけど、相手が望む僕を演じようとしてるだけやん』

『貴重な時間やお金使こうて、脳みそフル回転させて、何してんやろ・・・・僕』

と、何かむっちゃ自分自身が虚しくなって、哀しくなって、むっちゃ自分自身に腹立ってきた。

 

せやから、しばらくの期間、必要最低限以上に人と会うことを控えて、素の自分自身と向き合い、見つめ直してみようと思ってん。

 

ほんなら、『僕のことを理解してくれてる』とか、『自分のことを認めてくれてる』とかって、僕の自分勝手な思い込みで、大きな誤解やったんやってことに気づいた瞬間、肩のちょうど僧帽筋の辺りを抑えつけてた重力がスッと抜けて、一気にむっちゃラクになれてん。

 

そう、『他者が僕を理解してくれてる』とか、『誰かと、ホンマに分かり合えてる』って、お互いの誤解やってん。

『僕のことは理解されてない』、そして、『なんにも分かり合えてない』ってことが、人間関係のベースやということに気づいてん。

 

せやから、僕には表現力のひとつとしbて言葉が与えられてんねん。

せやから、誤解を恐れて口を閉じてしまうんやなくて、どうやたら相手に伝わるかっていうことに脳みそフル回転させて、言葉を紡いでいく必要があんねん。

言葉足らずで、他者に誤解される、誰かを傷つけたり、腹立たせてしまったりするっていうて、自分の不器用さに逃げ込んでる場合やないねん。

不器用なら、不器用なりにクリエイトすんねん。

それは、『自分を認めてもらうため』とか、『自分を分かってもらうため』やないねん。

 

『相手に伝わる言葉・態度・行動』を脳みそフル回転させて、クリエイトしてゆくことやねん。

ちゅことは、不器用な分、言葉足らずな分、周囲から誤解されがちな分、伸びしろもクリエとしてゆける領域も広いっちゅうことやねん。

 

何か、ワクワクしてけぇへん?

 

『分かってほしい人に分かってもらえへんこと』とか、『自分の想いを理解してもらえへんこと』って、むっちゃ辛いし、傷つくし、孤独感や劣等感に苛まれることもある。

せやけど、僕らには表現する言葉と、その伝え方をクリエイトできる脳みそがあんねん。

 

落ち込んでる場合やない、人を傷つけてしまうこと、理解されないことを恐れて、口を閉じたり、愚痴ったりするヒマがあったら、『どうやったら伝わるのか』を本気で覚悟決めてクリエイトすんねん。

誤解上等やねん!

 

そもそも、人間関係そのものが、理解からやなくて誤解からスタートしてると思ってて、丁度ええんかもしれへん。

だれも、分かってないし、分かろうともしてないかもしれへん・・・・でも、心のどっかで分かりたいとは思ってるかもしれへんし、僕のことを理解できたとしたら、その人の人生から誤解がひとつ無くなんねん。

 

それって、僕自身だけやなくて、相手にとってもハッピーなことちゃう?

 

そのためには、『分かってほしい』とか、『認めてほしい』って視点から、『どうやったら伝わるやろ?』という視点に変換して、脳みそフル回転で徹底的にクリエイトしてゆくことやと思う。

 

誤解がベースやからこそ、お互いに分かり合えたときの喜びもひとしおやと思えへん?

 

誤解上等!言葉と脳みそフル回転に感謝をこめて!