この春に私は二十歳になった。
昔から年上には見られてたんだけど、今年になってやっと外見相応になってきたんじゃないかと思う。
だけどね、最初は22歳とかが一番相応なんだろうなーとか甘い考えが芽生えてて。
何か、普通に「まだまだ若いじゃん。」とか自分に言ってた。
しかしながら、この数ヶ月20になったことから実は自分がどれほど子供なのか、考えが甘いのを理解しはじめた。
20。
この数字は微妙な意味を持つもので、その数字の歳になった瞬間から周りの大人たちには微妙な扱いをされてしまう。「もう、そろそろ大人としての将来の計画
をしっかり建てなきゃね」、に「まーでもまだまだ若いから、これからよねー」なんて同時に言われてしまい、最後には自分の過ちや、経験のお話しをしてもら
える。その中でその人たち、色々な人たちの人生の話しを聞くはとても興味深くて、自分も気をつけなきゃいけない事も見えてきた。考えた事も無かった事も脳
裏に浮かぶし、今の自分を見つめ直す事が出来てる。問いただしてしまう。好きな事が何か再確認してる。そういうきっかけが出来ている。
本屋には「幸せな暮らし方」、「毎日5分で幸せになる方法」、「20代のうちに知りたかった事」などが並んでるから、ついついそういうのを手にとって読ん
でしまう自分がいる。
そんなに自分の人生を質問攻めにしたことって果たしてあるんだろうかなぁ。周りの先輩、大人の先輩には「あー大学生のミッドライフクライシス?」なんて笑
いながら言われるんだけど、本当そうなんじゃないかと思う。詰まり、行き先をとにかく見いだそうとする時間、期間。それがちょうど日本に帰国した時間と重
なった。
時間は進み。見えてこない未来。これからどうしようかと問いつめるのも、今の自分に疑問を抱いてるのも、本当に好きな事をしてないからだろうか?
一人っ子の私は昔から親の言う事を忠実に聞いていたかった。褒められたり、いい子でいたかったんだろうな。だから、顔色伺いたかった。親が喜べば、それで
よかった。それがいつにか、自分のニーズと親を喜ばせたい気持ちが重なってた、というよりかさばってた。今の自分が何処に行きたいか、どう行きたいのか、
もう解らない。その中で理論を並べるとー
「え、違うんじゃない。」とよくに否定されてしまう。
前向きに考えても。自分なりにどう考えても否定形ばかりがとびかう。
本にはどうすればいいかと文字ばかりが並ぶ。
本当に先輩にはありがたい。ばしばし言っても折れないような人間になりたい。それを全部受け止めて、自分なりの流れにとり入れるようになりたい。
だけど、今の考えを否定しないで欲しかったかもしれない。
大きな我侭なんかなー。
若いって事はいかに微妙で、いかに論理付けたくて。人のせい
にして。自分の考えが正しいと願いたくなるあまり頑固になる。もどかしくて、模索していかなきゃならない。
リスクをおかして、それが間違っていても見いだせるものがあって。
だけど、この時期に見いだせるものって恐らくとてもとても後からベースになるものも多くて。
大いなる自由の代償は少しの苦難(ものの見方なんだろう
けど)やバカしちゃう事なんだろうね。だけど、そういうのも自分の人生の中で何処かで代償を払ってるんだと思うだな。
で、自分で言うのも生意気だけど…若い人たちだって彼等なりの答えを見つけ出そうとしていて、そこに違うよ、なんて論理つけられたり、あまりにも色々な人
の道ばかりを押し付けると、大変な事になりかねないと思うんです。何故なら、影響をかなり受けやすい歳なんですよ!
大人と子供の真ん中っていう言い訳が出来る、セコイ分野の歳なのかもしれない。考えもまだまだ甘いかもしれない。でも、ここで本当に自由奔放に飛ばな
きゃ、見いだせない気がしてならないーんです。
だけど、先輩たちの意見や人生論はとても大事に心の中に受け止めたいです。何故なら、その時間をとってくれるのは、なんらかその人たちの事を考えてあげてるからでしょ?わざわざどうでもいい人なんかに時間なんて注
げるはずがないんだもん。
若いなんてなりたくなかったけど、今は少し若いままでいたいかもしれないなー。
いくら時間があっても足りない気がしてならない。笑
だから、これからはもっともっと前向きに、色々外に出てみようと思う。
毎年言うような子なんですが、言葉だけで終わらせないように、しっかりせねばね!!!
あ。若いって何歳まで言えるんだろうねぇ。(○´ω`)
まだ疑問がふえてもーたw