秋風庵月化「五馬紀行」を歩く① | 五馬歩路

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大分県日田・五馬地方の古路を歩いてみました

五馬を通る往還道の情報を集める中で日田の先哲・廣瀬淡窓の「懐旧楼筆記」に道筋が記されている事を知り読んでいました。その巻十一に若き淡窓が塾生、伯父の月化と伴に五馬へ遊びに行った時の事が記されています。そして、そのくだりの最後に伯父・月化もこの時の事を紀行として一巻残しているが所在が不明で探してみたいと記しています。

 

淡窓全集・上巻 懐旧楼筆記 巻十一(公益財団法人廣瀬資料館蔵)

 

気になり、さらに調べてみるとそれは「五馬紀行」と言うものでした。その幻の一巻は近代、廣瀬家で見つかっていた様です。

早速、廣瀬資料館に問い合わせると写しではあったけれども特別に見せて頂けることに。

 

 五馬紀行(公益財団法人廣瀬資料館蔵

 

五馬紀行 とは

 
五馬紀行(公益財団法人廣瀬資料館蔵
 

文化3年9月(1806年10月)19日〜21日にかけて、月化は前年に長福寺にて開塾して間がない廣瀬淡窓と塾生達から誘われ、五馬市村の祭りに遊びに行きました。その様子を帰宅してまもない9月25日に筆を執り「五馬紀行」として残しています。 この時、月化60歳。

その道中の様子や当時の風景が目に浮かぶ様な描写は俳人ならでは。また、道中・滞在先に詠んだ、月化の句、淡窓をはじめ塾生達の漢詩も含まれ興味深い。


 

秋風庵月化

廣瀬平八(1747-1722)豆田魚町の商家・廣瀬家四代目。号・秋風庵月化。
弟・三郎右衛門(号・桃秋)に家業の博多屋を譲ると堀田村に秋風庵を構え、風雅の道に入りました。
私塾咸宜園初代塾主「廣瀬淡窓」・社会事業に多大な功績を残した「廣瀬久兵衛」兄弟の伯父。月化の建てた秋風庵は咸宜園の唯一の遺構として現存しています。

甥の廣瀬淡窓は2歳から6歳まで、月化の下で養育され、秋風庵で過ごしました。静かな田園風景の中でのびのび育ったことが、淡窓の豊かな感性を育んだといわれています。

 

 

秋風庵とは、

月化が知人から頂いた松尾芭蕉の書画

 

あかあかと 

  日はつれなくも 

       秋の風

 

から名付けられています。

 

淡窓先生ものがたり(日田市教育委員会)より


 

専称寺

現在も日田市天瀬町五馬市にある浄土真宗本願寺派の寺。永世12年(1515)小田了称師により桜竹村に開創。六世の時に焼失、後に現在地に移転再建。天保九年の五馬市村明細帳には、玖珠郡小田村・満徳寺との関係の記載あり。幕末から明治にかけての儒学者・長梅外は、この専称寺の生まれ。梅外の長男は、同じく儒学者でかつ明治政府官僚も務めた長三洲。この二人も咸宜園の出身です。

 

専称寺(日田市天瀬町五馬市)


 

この紀行に沿って、その道中の路を辿ってみようと思います。

 

 

五馬紀行
五馬市といえるは、いにしえのむまやぢの中にもさる所なればや、近世水戸なる赤水翁の輿地志にも其名を捜し出されけん。そこのあたりに専称寺てふ有、方角は我が庵の巽に向かへり。此住侶虚舟のぬしは猶子廉卿二十五歳に笈を四里に負へりの徒也。年々の九月には、彼地にかみわざのあなるに、いさ給え。祭りのかいもらゐめさせんとせちに其師を申請るに諾す。予は又廉卿がいさなふによる。~
 

 

「いにしえのむやまぢ」とは「古代の駅路・宿駅」、延喜式の駅路のことでしょうか(所説ありますが…)。五馬市は、古驛(宿駅)といわれています。小さな村だがそんな所だから、近年、水戸藩・長久保赤水が刊行した『改正日本輿地路程全図』にもその地名が載っているだろう…との事ですが、赤水が手掛けた集大成の第二版(寛政3年1891)にも残念ながら載っていませんでした。もしかすると、徳川光圀(水戸黄門)が編纂し、赤水が執筆を担当した『大日本史』地理志のことでしょうか。

 

 

 

改正日本輿地路程全図 第二版レプリカ (個人所有)

高萩市教育委員会

 

 
現在も五馬市にある「専称寺」は、秋風庵の巽(たつみ・辰巳の方角・東南)に四里の道程。

 

毎年九月(旧暦)、五馬市・玉来神社で行われる「五馬くにち」(現在も毎年10月20日頃に行われている)に五馬市・専称寺の僧侶で塾生の虚舟が師の廉卿(淡窓)を誘ったようです。さらに廉卿は伯父の月化を誘います。虚舟はすでに他の塾生も誘っていたのでしょう。

 

 

秋風庵 

 

 

~伴へる門生は小関亨十九歳・館林伊織十五歳・村上俊民十六歳・廣瀬正蔵十七歳・河南大路十八歳・みちしるべの虚舟十九歳の、まろなるかしらを真っ先におしたてて、十九日の辰の刻 足もとどろと草慮に来る いつれも予か歳の半だにも至るはなし 例の頭陀引かけ杖携えてうち出る時~
 

 

 

廣瀬廉卿 豆田町 のちの咸宜園初代塾主「廣瀬淡窓」25歳 月化の甥 この前年、豆田・長福寺学寮を借り講義開始するも百日余りで学寮を返し、まず豆田魚町の自宅に移した。まもなく八月に豆田・御幸橋付近の家を借り「成章舎」と名付け、ここで講義していた。

虚舟 五馬市村(現天瀬町五馬市)19歳 堯立。専称寺の住侶、息子? 道案内役。長福寺学寮には、淡窓と一緒に住み込んでいました。
館林伊織 隈町 15歳 淡窓の一番弟子。亀井塾留学の後、若くして、諫山安民と共に淡窓開塾時よりの右腕となる。
小関 亨 柚ノ木村(現天瀬町合田)19歳 のちに秋月藩の藩医となる。安民・伊織とともに塾の秀才。
村上俊民 中摩村(現中津市山国町中摩)16歳 のちに豊前の三才子とうたわれる。子の村上姑南は明治になり日田咸宜園の再興に迎えられて師となった。
廣瀬正蔵 豆田町 のちの「廣瀬久兵衛」17歳 月化の甥・淡窓の弟 漢学の道に進んだ兄・淡窓に代わり廣瀬家を継ぐ。郡代・塩田大四郎正義に抜擢され、二豊内において数々の社会事業を手掛け多大な功績を残す。

河南大路 豆田町 18歳  

 

9月19日(旧暦)午前8時ごろ、これらの若者達がぞろぞろと秋風庵にやってきました。自分の歳の半分にも満たない若者達と共に、月化は頭陀を引っかけ杖を携えて出発しました。

 

 

咸宜園跡地・秋風庵の南側の筋は当時より残っている路です。

 

 

これを東に向かったと思われます。これより、200m程進むと豆田上町からの道と合流します。この道は、往還道の一つ肥後道へと繋がります。

これを彼らは歩き、五馬へ向かったと考えます。

 


小ケ瀬井路絵図(公益財団法人廣瀬資料館所蔵)に加筆

 

 

 朝霧や

  われも書生に

     紛れ行く

 

 

<参考資料>

五馬紀行 公益財団法人廣瀬資料館蔵
淡窓全集 
小ヶ瀬井路絵地図 公益財団法人廣瀬資料館蔵

淡窓先生ものがたり 日田市教育委員会

天瀬町史

五馬市村明細帳

改正日本輿地路程全図 第二版レプリカ 高萩市教育委員会
公益財団法人廣瀬資料館
咸宜園教育研究センター

専称寺