五馬歩路

五馬歩路

大分県日田・五馬地方の古路を歩いてみました

Amebaでブログを始めよう!

 

大鳥村中村を通り

柚ノ木村へ向かいます。

 

 

旧町道は、村間の里道をベースに

拡げられていたのですが

現在は別に農道が新設されています

 

 
 

 

image

大鳥からの路は、ここへ出てきて

一里半の道のり、ようやく小関亨宅へ到着しました。

 

 

未の刻斗にや柚の木につきぬ

午後二時ごろ柚ノ木に着いた。

 

待儲けたる一家の奔走おふかたならず 主人ハ小関を氏とし名ハ玄珪 風流には逸峰と呼ふとか 仁術の業をせらるれハ即時

 

長生をせよと菊花のやとり哉

 

一行を待ち受ける一家は準備でバタバタしていた。

主人は小関を姓とし名は玄珪、号は逸峰といい、医者をしている。
 

 


 

小関亨実家跡

旧天瀬町立丸山小学校前に

小さな茅葺の家があったと云われています

 

 小関亨は、のちに淡窓自身が挙げた咸宜園の五子のひとりとして名を連ね、秋月藩医・加峯蟠梁の養子となります。加峯穀城。号・関長卿。亨の弟・要人も咸宜園の門をたたき医者になり、淡窓は要人にかかりつけていた様で、往診に来ていた事が日記に見られます。のちにその孫が五馬市村八本木に移り住んでいます。

 


 

かゝる半 廉卿か塾に残り居たる諸生の中 松本主計十八才 井上亘十三才なるもの 家弟よりの使に来れり 書中さりかたき用にしてかへさをあすに延ハす事かたし さりとて一連擧ッて暇告んもいかて許さるへき 又ほゐなかるへしと廉卿とはかりて虚舟 蘭秀 俊民ハ師ともに止まる 

これより半刻ほどすると 廉卿(淡窓)の塾に残っていた塾生、松本主計(十八歳・渡里村)井上亘(十三歳・鶴河内村)が弟の使いとしてやって来た。書中捨て去り難い内容だったので、戻るのを明日に延ばすことが出来なくなった。しかしながら、皆がこぞって戻るのをどのように許しをもらうのか…又、補遺ないようにと廉卿(淡窓)と相談して、虚舟・蘭秀・俊民は師と共にこのまま泊まることとした。

 

予ハ伊織 大路 正藏と今来つる二子を引具して家路に趣くに日ハはや西の空なり 

あからめもせす道を馳て一里あまりハ松ども灯してからうして蝸室に這入る これよりあすの事ハしらす 廉卿にゆつりて筆をとゝむ


文化三丙寅秋九月
二十五日即時 秋風菴 述之

 



 

私は、伊織・大路・正蔵と今来た二人を引き連れ家路に赴くと、陽は早くも西の空であった。わき目もふらずに道を急ぎ、日が暮れると一里ほどは松明を灯して、なんとか我が家へ辿り着いた。

小関宅に残した一行の次の日の事はどうだったか分からないので、廉卿(淡窓)に譲るとして筆を置く。

 


 

柚ノ木を立った月化一行は、幹線の里道を柚ノ木村中村方面へ歩き、漆原坂を上り台の追分に出たと思われます。

 

柚ノ木村中村を通過します

 

 

五馬紀行より十年後の
文化十三年(1816)に建てられた

「猿田彦大神」

 

隣に「萩迫如来木像」

収められた石祠が並んでいます。
その昔、この木像を背負って廻国中の巡礼が

この地で病み、

介抱した村人に仏像の供養を頼み

金を預けてこの世を去ったと

言い伝えられている。

 

橋の袂の旧道

以前、石祠・猿田彦は旧道(谷川)側を向き

立ってた様だが、新しく車道が出来たので

向きを変えたらしい。

 

 

漆原坂の旧道

 

 

女子畑台の追分付近

ここで往還道に合流すると

西へ家路を急ぎました
 

 

台・追分の往還道に残る道標
「右つえたて 左あまがせ一里道」

と刻まれています。

左のあまがせ一里道は

「~柚ノ木~湯山~天ケ瀬」への里道。

帰路は柚ノ木からここへ向かい

往還道に合流したと思われます。
右は往還道。今回の往路は、

右を辿り五馬へ向かいました。

 

 

後に淡窓も「懐旧楼筆記」にこの時のことを記しています。

 

…亨カ父玄珪相見ス 此人読書ヲ好メリ 此日我家ヨリ書生両人 柚ノ木ニ來レリ

官府ノ吏人坂田祐八 明日を以テ發シ 東都ニ赴クナリ伯父従来彼ノ人ト交厚ケレハ
歸來ツテ別ヲ爲シ玉フコト 然ルヘシトテ 先考ヨリ余カ門生ヲ迎ヒノタメ差越サレタリ
是ニ於テ 伯父ハ小關氏ヲ辭シテ歸リ玉フ…翌日柚ノ木ヲ發シテ 三子ト共ニ家ニ歸レリ

道程二里半ナリ 此時伯父紀行一巻ヲ著シ玉ヘリ 其草稿今見エス 追テ捜シ索ムヘキモノナリ

但シ俳句一首ヲ記得ス 發程ノ時ノ作ナリ

 

朝霧ヤ我モ書生ニ紛レ行ク

 

(廣瀬淡窓「懐旧楼筆記 巻十一」)

 


 

 

遠思楼詩鈔には、詩を残しています。

 

宿關玄珪宅
苦學忘身世 斯人古所難 
牛頭猶挿巻 鶏外漫持竿
雪壓茅庵小 雲埋松火寒 

妻兒皆識字 爐畔話圑欒

(遠思楼詩鈔 巻上)

 

関玄珪宅に宿す

苦学は身世を忘れる これ人は古いと難しい所

牛頭なお巻挿し 鶏は外で漫(そぞろ)に竿を持つ

雪が押さえつける茅葺きの家は小さく 雲に埋もれ松火も寒い

妻子は皆読み書きが出来 炉端で団らんに話す

*身世:人の経歴や境遇。

 

 

 

この時、淡窓は世の人の学ぶことの大切さを小関家で再確認したのではないでしょうか。
家人が皆読み書きが出来、対等に話せる、理想的な社会がそこにあったと思われます。

その後に淡窓の説いた「約言」や「迂言」の学制で垣間見れます。

さらには、日田出身で神童と呼ばれた咸宜園一の秀才「長三洲」が、文部官僚として明治5年の日本の学制の草案に携わりました(この長三洲は、五馬紀行に出てくる「専称寺虚舟」の孫ではないかと思われ、引き続き研究中です)。これは師・廣瀬淡窓の咸宜園・学制を基礎に据えたといわれています。

 

「学事奨励ニ関スル被仰出書」(学制序文) の一部
「…自今以後一般の人民華士族農工商及婦女子必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめんことを期す。人の父兄たるもの、宜しく此の意を体認し、其愛育の情を厚くし、其子弟をして必ず学に従事せしめざるべからずものなり。…」

*「学事奨励ニ関スル被仰出書」:学制を公布するに当たって発せられた太政官布告第二百十四号(明治五壬申年八月二日)より。学制の基本精神を明らかにしたものであり、学制公布についての政府の宣言書である。文部省はこれを学制本文の前にそえて全国府県に頒布したもので、学制の前文に当たるものである。

 

 

長三洲

 

月化の残したこの「五馬紀行」は、咸宜園史料としてもあまり目にすることはありません。しかし、塾を立ち上げて間もない淡窓にとって、この三日間の経験はその後の教育方針・塾運営に大いに影響があったのでないかと考えられ、非常に貴重な史料と思われます。

 

<参考資料>

五馬紀行 (公益財団法人廣瀬資料館蔵)
淡窓全集 

天瀬町の文化財(天瀬町教育委員会)

豊後國日田郡村誌 書写(天瀬公民館所蔵)

長三洲 (中島三夫著)
学制百年史 学制の教育理念(文部科学省)

公益財団法人廣瀬資料館
咸宜園教育研究センター