女子畑・台
古井の久保の道標からの坂にも石が畳んでいた様です。
この坂のアスファルトの下には、石畳が保存されていると言われています。
しばらく道なりに進み、この辺りから右手の農地に上がります。
この畑中の右側くらいを往還道が走っていました。
さらに数十年前に水田の端に10メートルほど移動され祀られています。
「亀山抄」(安政四年〔1857〕)によると、
『虎御前の塔と云い、女子畑村より柚ノ木下る坂の少し手前の人家手前の畑中の岩の上にて小さき宝筐印塔の如し、虎の立下てしものにて、虎とは有名な大磯の虎にて曽我十郎祐成に貞操をたて、祐成復讐の後、其の身を仁田忠為に討たれしかば、虎十九歳なりしが箱根山に入りて尼僧になりて、諸国を修行し回りて祐成の冥福を祈りしものなれば、其の到る処に塔を建て同祐成の冥福を祈りしなるべし・・・』(天瀬町の文化財・天瀬町教育委員会S49より)
曽我祐成の死は建久四年(1193)五月二十八日。この日は雷雨であったらしく、以後、五月二十八日に降る雨は「虎の涙雨」と言われているそうです。
この女子畑の台は昭和10年代半ばより大規模に近代的な農地の整備が行われました。
その為、この農地の中を通っていた往還道は、道としての姿を消しています。
虎御前塔辺りから二百メートル程、農地の中を通った往還道は追分という所で現道と合流します。
旅籠屋だったという家の塀側、約2m程が往還道だったようです。このアスファルトの下にも石畳が眠っていて欲しいです。
このお宅の10mほど手前左側、家の脇の石垣沿いが往還道でした。ここに道標が座っています。
ここは通称「追分」といわれ、この地点で路が分かれていた様です。
左の道標
右 つえたて及び
左 あまがせ一里道
右の道標
従是西六拾七間余 口五馬筋
嘉永五子秋
整地よりまだ10年内のこの写真にその道筋と思われる様が見てとれます。
国土地理院1948の航空写真
現在の追分付近
また、右の道標にある口五馬筋とは
「女子畑村・苗代部村・大鳥村・赤岩村・柚ノ木村」の六ヶ村。
この辺りが追分より西六十七間余(約120m)地点、右側の道標が示す「口五馬筋」への路の入口であったと推測します。
この辺りから右へ入る路があったようです。
整備によって直線的な畦道になっていますが、ここを右に入り数キロ進むと玖珠川沿い、女子畑字川原へ出ます。